Falsche Bewegung
1974年,西ドイツ,100分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ペーター・ハントケ
脚本:ペーター・ハントケ
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:リュディガー・フォグラー、ハンナ・シグラ、ナスターシャ・キンスキー、H・C・ブレッヒ

 我々は冒頭の街の俯瞰ショットで期待に胸を膨らませる。そして、主人公のヴィルヘルムが拳で部屋の窓ガラスを割るシーンにハッとする。苛立ちと不満感にさいなまれる小説家志望のヴィルヘルムは母に勧められるまま旅に出る。ドイツを縦断するように旅する彼は何かを見つけ出すことができたのだろうか?
 ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を底本として書かれたペーター・ハントケの小説の映画化。ヴェンダースのロード・ムーヴィー三部作の2作目に位置付けられる。希望に満ちた若者の旅というよりは、寂寥感や静謐さを感じさせる。これが映画デビュー作のナスターシャ・キンスキーも強い印象を残す。 

 この作品は「ゴールキーパーの不安」と似通ったところが多い。物語の転換のきっかけとして「死」があること。「ゴールキーパー」ではそれが殺人であり、「まわり道」では自殺であるという違いはあるものの、そこで物語が固着するという点は同じだ。そしてヴェンダースが本当に描きたかったのはそれらの「死」の後の話だという点も。単調で退屈に見える、「動き」を奪われてしまったその後の展開は、結局何も始まりも終わりもしなかったたびを象徴するものとしてそこにある。ヴィルヘルムは、最後には山の頂きに立ちはするが、何も生み出さず、何も得られず、何も見つけられなかった。
 ただ、これはヴェンダースが何かを否定していることは意味しない。ヴェンダースはただこれを提示しただけ。ひとつの物語として我々に示しただけだ。彼が私たちに見せたかったのは、「世界」であって教訓ではない。
 この作品が「ゴールキーパー」と違うのは主人公のモノローグ。「ゴールキーパー」では主人公に同化しにくいが、この「まわり道」では我々は主人公の視点でものを見させられる。主人公がモノローグを語りだすと見る側は、彼を観察することをやめ、自分がそのモノローグを語っているかのように錯覚し始める。そして主人公の視点に立ち始めるのだ。
 個人的にはそのように主人公の視点に捉えられてしまうことは非常に居心地が悪かったが、「むなしさ」を強く感じることができたことも確かだ。一般的に言えば感動を誘うはずのラストシーンの雄大な山の景色も、ただ白々しいだけのものに見えた。それは私がある程度ヴィルヘルムの気分を共有していたからだろう。物語の後半が退屈に感じられるのも、ヴィルヘルムもまた退屈しているからだろう。映画が退屈であるというこの事実にヴェンダースの力量を感じた。 

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