The Loss of Sexual Innocence
1998年,アメリカ,106分
監督:マイク・フィギス
脚本:マイク・フィギス
撮影:ブノワ・ドゥローム
音楽:マイク・フィギス
出演:ジュリアン・サンズ、ジョナサン・リス=メイヤーズ、ケリー・マクドナルド、サフロン・バロウズ、ステファノ・ディオニジ、ジーナ・マッキー、ロッシ・デ・パルマ

 1954年、ケニア。少年はとうもろこし畑にあるボロ小屋でひとりの老人が混血の少女に本を読ませている隠微な場面を覗き見る。それは主人公ニックの5歳の頃。映画はニックの5歳、12歳、16歳、そして現在(恐らく30代)の場面がモザイク状に組みたてられ、そこにアダムとイヴらしき裸の男女(男は黒人、女は白人)の挿話がいれ込まれて展開する。 難解で、思索的とも言える映画構成。『リービング・ラスベガス』で名を馳せたマイク・フィギスが17年間の構想の末、完成させた自伝的作品。イノセンス=無垢という事をテーマにしたこの作品は、真面目に真摯に我々に語りかけてくる。

 映画としてはかなりいい出来だと思う。哲学的で幻想的で、難解で。シーンごとに照明や撮り方に変化があって、非常に面白い。夢のシーン照明がずっと片側だけからあたっていたりして。難解で何を言いたいのか的を得ないのだが、観客に口をポカンと開けさせるだけの力をもった映画だとは思う。
 しかし、真面目過ぎるし、古すぎる。構想17年というが、それは17年間構想を練ったということではなくて、17年前の構想だってことでしかないのではないかと疑問に思わざるを得ない。何と言ってもそれを感じさせるのが、「アダムとイヴ」。アダムが黒人でイヴが白人(北欧系)というキャスティングにこだわったということが美談のように言われているが、それはむしろ黒人差別という白人の原罪を克服しきれていないことの証であるように見えてしまう。「私は差別をしていない」というモーション。「だからアダムを黒人として描ける」という傲慢。それは映画中でニックが「ダニ族」だったか何かのカニバリズムの種族についてしたり顔で語った場面と重なり合う。「偏見なんてない」とことさらにいうことは、むしろ偏見を持っていることの証明であり、「偏見を持っているが、それを押さえ込むことが出来る」に過ぎない。
 なぜ黒人男性と黒人女性ではいけなかったのか? なぜエデンの園にいた馬は白馬だったのか? そんな事を考えていると黒人男性と白人女性というキャスティングが欺瞞でしかないように見えてくる。
 この映画は、難解なようで、むしろやさしすぎ、語りすぎているように思える。解くのが難しい問題(つまり、難しいが解ける問題)を扱っているかのように振舞っているが、むしろこの映画が扱っているのは差別や原罪という解くことの出来ない問題なのではないだろうか? そのような問題をあたかも解決できる問題であるかのように語ることは意味がないばかりか有害ですらある。
 というわけで、純粋に映画としては評価できますが、その底流に流れる思想性にどうも納得がいかなかったというわけです。まあ、理屈っぽいたわごとだと思っていただければいいですが。

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