Takhte siah
2000年,イラン,84分
監督:サミラ・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ、サミラ・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ
音楽:モハマド・レザ・ダルヴィシ
出演:バフマン・ゴバディ、サイード・モハマディ、ベフナズ・ジャファリ

 黒板を背負って山道を歩く歩く男たちの一団。彼らは、学校がなくなって職を失った教師らしい。時はイラン・イラク戦争の真っ最中、彼らは食べるため、各地の村々を回って子供たちに読み書きや算数を教えて歩いていた。その一団の中の二人の教師サイードとレブアル、それぞれ生徒をさがし、サイードはイラクとの国境に向かう老人の一団を見つけ、レブアルは大きな荷物を運ぶ子供たちの一団を見つけた。
 『りんご』で世界の中目を集めた若干20歳のサミラ・マフマルバフの監督第2作は『りんご』と同じように、ある種ルポ的な色彩を取り入れつつも映像にこだわって映画らしい映画に仕上げた。

 とりあえず、黒板を背負って歩くという発想が面白い。監督いわく、もともとのアイデアは父親のモフセンの発想から得たらしいが、それをうまい具合に映画世界にはめ込んだところがうまい。
 この映画はやはりかなり社会的なメッセージ性の強い映画で、最近の出来事であるイラン・イラク戦争をいまだに問題として残っているクルド人難民の問題と関わらせつつ描き、かつ戦争に対する人々の姿勢を生々しく描こうという野心が感じられる。しかも、子供、老人という二つの世代を対象とし、そこにストーリーテラーとしてのいわゆる大人が入っている構造から行って、全体像を描こうという構想なのだろう。
 したがって、物語そのものは収斂するのではなくむしろ散逸してゆく方向ですすみ、結末もはっきりとしたメッセージを打ち出すわけではない。漠然とした反戦のメッセージ。あるいは「生きる」ということに対する漠とした渇望。
 全体には非常に出来のよい映画ですが、ちょっと手持ちカメラの多用が気になりましたかね。主観ショットのときに手持ちを使うのはとても効果的でいいのですが、主観ではないと思われるところでも手持ちのぶれた画像が使われていたので、その効果が薄れてしまった感じがするし、あまりに手持ちの映像が多い映画は酔うのでちょっと厳しいです。山道の移動撮影で、ぶれない画像を撮るのも難しかろうとは思いますが、それを感じさせないように作るのが映画。映画の世界の外の状況を考えさせてしまってはだめなのです。そこらあたりが減点。

 今回見てみると、いろいろと味わい深い部分があります。メッセージ性などは置いておいて、映っている人々の生き生きとした感じというか、非常に厳しく、本当に生きていくのがやっとという生活(といえるかどうかも怪しい移動の日々)のなかでもいくばくかの喜びがある。あるいはただ苦しみが和らぐだけであってもそれを喜びと感じる。それがこの映画の非常によい味わいであると思います。故郷へと向う一団の中で「黒板さん」と結婚することになる女性。彼女は精神的に参ってしまっているのだけれど、周囲はそれをどうとも思わない。それは一つの不幸ではあるけれど、皆が抱えている不幸と質的に差があるわけではない。そしてその父親は膀胱炎でおしっこが出ない。しかし出さなければならない。おしっこが出た瞬間、彼が感じた幸せはどれほどのものだったか。ズボンへと伝う暖かいおしっこの感触が幸せであるというちょっと笑ってしまうようなこと。それが幸せであるということ。少年レブアルが自分の名前を黒板に書くことができたとき、彼の表情は真剣でありながら喜びに溢れていた。その文字はたどたどしいものであっても彼にとっては無上の喜びを与えてくれるものだった。それを書き上げた瞬間に待ち受ける運命がどのようなものであっても。
 そのような生きる喜び。クルド人の一団が「黒板さん」に導かれてついに故郷にたどり着いたことをしる歌が鳴り響いたとき、彼らの喜びはいかほどのものだっただろうか。故郷に帰っても彼らの運命は悲惨で未来など霞のようなものだということは見ているわれわれにも、旅する彼ら自身にもわかってはいるに違いないのだが、故郷に着いたということの喜びは他には変えがたいほどのものなのだ。そのような悲惨な中にある喜びを無常のものとして描きあげたこの映画はどこを切っても味わい深い。

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