1999年,日本,99分
監督:土屋豊
脚本:土屋豊
撮影:土屋豊、雨宮処凛、伊藤秀人
音楽:加藤健
出演:雨宮処凛、伊藤秀人、土屋豊

 雨宮処凛、何かを信じたくてすがりたくて民族派と呼ばれる右翼団体に属し、右翼パンクバンドでボーカルを務める。彼女とその同士伊藤秀人がまったく右翼ではない監督土屋豊との共同作業で作り上げた一遍の思想の形。
 映画は雨宮の日記風のビデオ映像を中心にして北朝鮮訪問などの様子が挿入される。素直に時系列に沿って作られているのでその思想の推移や撮る側と撮られる側の関係性の変化などを見られるのがよい。

 彼女あるいは彼女たちのいっていることも言いたい意味もわかるけれど、それはまったく心には突き刺さってこない。それはそのイデオロギーに共感できないからではなく、そこにイデオロギーがないから。彼らが主張しているのはイデオロギーではなくアンチイデオロギーである。今あるすべてのイデオロギーに対して疑問を投げかけるが、そのアンチテーゼとしてのイデオロギーを投げかけることはしない。だから彼らのメッセージは心には入り込んでこない。ただ彼らの逃避と意地と当てのない憤怒のみがそこからは伝わってくる。したがってこれが思想表明を主とした映画であるとしたならば、完全な失敗だと私は思う。そして、ある程度、思想表明と考えている(人もいる)と私は思う。
 しかし、これを異なる立場の人間の関係性の変化を描いた一つのドラマであると考えるならば、そこに十分ドラマは成立していると思う。主人公雨宮と監督でありカメラマンである土屋との関係性の変化は雨宮自身の告白を聞くまでもなく明確に画面に現れる。
 問題はこの映画がこの二つの要素のどちらでもありながらどちらでもないところ。完全なアンチイデオロギーの表明であるなら、もっと方向性の定まった語り方をするべきだし、関係性の変化や思想の揺らぎを描こうとするならその内容の部分を強調しすぎるべきではないと思う。
 私としてはもっとドラマチックに揺らぎを描いたほうが面白かったと思う。それをさせなかったのはこの映画が持つドキュメンタリー性へのこだわりであると思う。そのドキュメンタリー性というまやかしの客観性へのこだわりを捨て、フィクショナルな方向へ足を踏み入れればもっと魅力的な映画になったと思う。

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