2000年,日本,96分
監督:和田淳子
脚本:和田淳子
撮影:白尾一博、宮下昇
音楽:コモエスタ八重樫
出演:小山田サユリ、尾木真琴、田中要次、岸野雄一

 どこにでもいるような女の子・真中エリ。仕事もなく恋人もない彼女が自分の妄想・頭のざわざを言葉にする。それは理想の自分を書くことだった。そんな彼女の書いた小説が思いがけずベストセラーに。新進小説家となったエリは思い描いていた理想の生活を手に入れたはずだったが…
 アヴァンギャルドな短編映画を撮ってきた和田淳子監督の初の長編作品。映画の概念から外れかねないくらいまで映画を脱構築したこの作品は、アヴァンギャルドでありながらユーモアにとんだ分かりやすい作品に仕上がっている。

 かなりすごい。冒頭のシークエンスからすでにこの映画の要素が濃縮されて収めれられています。それはアヴァンギャルドさであり、映像の突飛さであり、一種の安っぽさである。足ばかりを執拗に映すという試みと、ホームビデオのようなドットの粗い字幕、その実験性とチープさに期待感をあおられる。そして、続くモノローグのシークエンスはそれ自体アートであるところの映像作品として作られており、それでいながらどこかで転調するに違いないという予想を抱かせる。その予想は一種の驚きと共に実現され、そこからはなだれ込むように魅惑の世界が広がっていく。
 などと感想もまたどこかアートっぽくなってしまう感じですが、実際のところこの映画はかなり笑いにあふれ、非常に分かりやすく、面白い。小難しく見ることと素直に楽しく見ることが同時にできるようなそんな映画。私が一番気に入ったのはやはり「初台の吉野家」。見た人にしかわからないのですが、見た人は絶対うなずく。あの部分のネタとそれを紡ぐ映像はまさに絶品。そんな笑える部分にこそこの映画の魅力があると私は思います。
 しかし、笑いにも様々な種類があって、単純にネタとして面白いものもあれば映画であるからこそ面白いものもある。映画として面白い笑いというものは概していわゆる映画からそれることで笑いを作り出すものであり、それは映画を壊すことから始まっている。それはある種の(映画としての)突飛さであり、この突飛さこそがこの映画の全編に共通する特徴であるということ。
 映画をこわし、脱構築することはいま面白い映画を撮る一つの方法であり、この映画の突飛さも一種の映画の破壊であるという点では、その方法論に乗っている。しかし、脱構築に成功している映画というのはすべてが全く違う方法論にのっとったものであり、一つの方法論というものは存在しない。新たな破壊の方法を見つけなければ映画をこわすことは不可能なのだ。だからすべてが全く違う映画であり、全く違う面白さがある。しかしその脱構築と言うものはなかなか成功しないものである。
 と、小難しく書いてみましたが、要するにいわゆる映画というものをこわすことから映画は始まるのです。それは実はすべての映画に当てはまることであって、これまでの映画の何かをこわした映画だけが本当に面白い映画なのだと言うこともできるのです。
 この映画は映画をこわし、それは笑いへと昇華させ、しかも映画として完成させている。それはものすごいことで、この映画の感想はと聞かれたら、開口一番「すごい!!!」とエクスクラメーションマーク×3で答えるしかないほどすごいのです。
Database参照

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です