1960年,日本,85分
監督:増村保造
原作:沢田撫松
脚本:和田夏十、市川崑
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:京マチ子、ハナ肇、船越英二、大辻伺郎、ジェリー藤尾、田宮二郎、杉村春子

 東海道線の特急の中、小説を一心に読む少年と隣の席に座った学生。少年が食堂車にいくとそこにはその小説の作者である五無と雑誌社の編集者、それに大阪の刑事がいた。彼らとその電車に乗り合わせた美人スリさやとが繰り広げるドタバタ喜劇。
 沢田撫松の原作の3度目の映画化。2度目の映画化の際に監督をした市川崑が企画と脚本に名を連ねている。増村はクレイジーキャッツを起用することでこの作品をコメディ映画に仕上げた。

 軽快です。映画全体に非常に心地よいリズムがあって、そのリズムを崩さずに映画が進んでいく感じ。ある意味では先の展開が読めるということでもありますが、期待したとおりのことが期待したとおり起こるというのはなかなか気持ちのいいものです。そのリズムが唯一崩れるのは、厚木の飛行機を写した長いインサートですが、これはこれで物語のちょうど中間あたりにひとつの間を取るという意味でリズムを崩すというよりはひとつの間を与える。このあと少しテンポアップするので、あとから見ればいい間だったということです。
 後は、時代性ですかね。増村の作品で、主に若者を描いた作品ではことさらに「時代」というものが色濃く出ているものがありますが、それは当時のリアルタイムを今になってみているというもので、今になってみると少し押し付けがましさを感じます。それに比べるとこの作品が感じさせる時代性というものはもっとさりげないもので、今になってみるとよりリアルに感じられる。
 街角に貼られた映画のポスターや街そのもの、特急というものの新しさ(増村には「黒い超特急」というのもありました。あれも新幹線の時代性というものを感じさせてた)などなど。これはこの映画には昔を振り返るという面があるからこそ出てきた特徴でしょう。前の時代を振り返ることによって振り返った時点の時代性が浮き彫りになってくる。ただ現在を映しただけでは出てこない深みが出てきます。
 ところで、この映画のカメラは村井博さんですが、増村作品でカメラを多く握っている人の一人です。私はこの村井博という人より小林節夫が撮影を担当した作品のほうが好みです(中川一夫は別格として)。少々分析すると、村井博の映像はすっきりとしていて増村自身の意図がストレートに出てきている気がします。この作品のような軽快な作品ではこういうさりげない映像というのがとても効果的ではあります。これに対してこ小林節夫の映像は構図が非常に凝っていて、画面にインパクトがあります。だから画面自体が語ってしまい、その奥にあるドラマが薄められてしまうという感はありますが、増村の濃厚なドラマにはそれぐらい強い画面のほうがいい。濃厚なドラマと強い画面がぶつかり合う雰囲気がたまらなくいい。
 今度は小林節夫を見に行こう。

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