Profundo carmes
1996年,メキシコ=フランス=スペイン,114分
監督:アルトゥッーロ・リプスタイン
脚本:バス・アリシア・ガルシアディエゴ
撮影:ギリェルモ・グラニリョ
音楽:デヴィッド・マンスフィールド
出演:レヒナ・オロスコ、ダニエル・ヒメネス・カチョ、マリサ・パレデス

 コラルは二人の子供を抱え、看護婦で何とか生計を立てていたが、ひとり身であることから欲求不満がたまる。太ってしまったことを気にしながら、雑誌の恋人募集欄で見つけたニコラスという男性に手紙を書く。ニコラスは鬘をかぶり、手紙を送ってきた女性を騙す詐欺しまがいの男だったが、コラルはニコラスに恋をしてしまう。しかし、その恋はコラルの運命を変えてしまった…
 実話をもとにメキシコの巨匠リプスタインが映画化した作品。画面もリズムも物語りもどこか不思議な違和感を感じさせるところがとてもいい。

 冒頭のシーン、鏡に映りこんだポートレイトから始まり、同じく鏡に映りこんだベットに横たわり雑誌を読むコラルが映る。そのあと一度鏡を離れ、再び今度は違う鏡にうつる。そしてさらにベットに横たわるコラルを今度は直に。このカメラの動きにいきなりうなる。技術論うんぬんという話はしたくないですが、鏡を使うのが難しいということだけ入っておきたい。カメラを動かしても不必要なものが鏡に映りこまないようにものを配置することへのこだわり。これは難しいからすごいということではなく、そのような面倒くさいことをやろうというこだわりがすごいということ。さすが巨匠といわれるリプスタインだなという感じです。
 このシーンでさっと身構えたわけですが、この映画はかなりすごい。まったくもってマイナーな作品だと(多分)思いますが、まさに掘り出し物。そのすごさは映画の完成度にあるのではなく、その煩雑さにある。まずもって画面が煩雑、様々な色彩が画面に混在し、ものがごちゃごちゃとしていて落ち着かない。それはすっきりとした画面を作るより難しいこと。主人公2人のキャラクターも秀逸。パッと見、全く魅力的でなく、画面栄えしない2人だが、その姿が煩雑な画面にマッチし、なんともいえないリアルさをかもし出す。さらにコラルは物語が進むにつれて魅力的に見えてくるから不思議、そしてニコラスの鬘に対する恐ろしいまでの執着、2人の異常性へのさりげない言及などなど、細かな配慮がすべてにおいて効いている。
 プロットの面でも、ひとつひとつのエピソードを追っていかないところの違和感がいい。「このあとどうなるんだ?」という疑問を浮かべさせるようなエピソードの終わり方をしていながら、その後を追うことはしない。疑問符がついたまま次の展開へと移ってしまう。その投げ出し方の違和感がいい。だから結末の投げ出し方がもつ違和感にもかかわらず、見終わって感動すら感じてしまうのかもしれない。
 なかなかこういう違和感というのは表現しにくいものですが、これはつまりいわゆる一般的な映画とは違うという意味での違和感。完璧な舞台装置のまえで演じられるひとつの劇としての映画との齟齬感。しかもそれが偶然によるのではなく、作り出されたものであるということがひとつ重要である。それはつまり映画を否定しようという試み、いわゆる映画とは異なった映画を作り出そうという試み。そのような試みが顕れてくるような映画を私は愛したいのです。この映画もひとつそんな否定の可能性を孕むものとして面白いということ。これを不出来なメロドラマとしてみるのではなく、ひとつの挑戦であると見ることに快感があるのです。

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