1951年,日本,124分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:伊藤宣二
出演:原節子、笠智衆、淡島千景、三宅邦子、菅井一郎、東山千栄子

 紀子は両親と兄夫婦とその2人の息子と仲睦まじく暮らし、東京で重役秘書の仕事もしていた。しかしもう28歳、まわりは早く結婚をと考える。学生時代からの親友で同じく未婚のアヤと嫁に行った友達をいじめたりもしているが、本心はどうだかわからない。
 小津らしく家族を中心に、日常生活の1ページを静かに切り取った作品。晩年というほどではないが、かなり後期の作品なので、スタイルも固まり、いわゆる小津らしい作品となっている。

 小津映画の特徴といわれるものがもらさず見られる。ローアングル、固定カメラ、表情を正面から捉えての切り返し、などなど。もちろん映画からこれらの特徴が分析されたのだから、そのような特徴が見られるのは当然なのだが、分析の結果を知って映画を見るわれわれはそのことに目をやってしまいがちだ。
 しかし、そんな分析的な目で映画を見てしまうとつまらない。特に小津の映画は分析的な目で見ると、どれも代わりばえがせず、型にはまっていて退屈なものとなりかねない。しかし、小津が偉大なのはそのようなスタイルを作り出したことであり、そのスタイルは驚嘆に値するものだ。小津のスタイルとはあくまでも、よりよい描写のために作り上げられてきたものであり、まずスタイルありきではない。笠智衆の寂しさを捉えるのに、右斜め後ろからローアングルで撮るのが一番いいと思うからこそローアングルで撮るのであって、ローアングルがまずあるわけではない。
 だから、なるべく分析的な視点から逃れて映画を見る。するとこの映画は他の小津の映画と同じく不自然だ。カメラをまっすぐみつめて、棒読みでポツリとセリフをはく笠智衆はやっぱり不自然だ。ついついにやりとしてしまうような不自然さがあちらこちらにある。その不自然さはしかし空間をギクシャクさせるような不自然さではなくて、逆にほんわかとあたたかくさせる不自然さであると思う。それは映画全体の雰囲気とも関係があるのだが、その不自然な振る舞いや映像によって逆に人間くささのようなものが生まれる気もする。
 この不自然さという部分だけを取って何かを言うことは意味がないのかもしれないけれど、この映画で引っかかったのはその部分でした。もうひとつ「間」の問題も頭をかすめましたが、この小津的な「間」というのはもう少し考えてから書くことにします。
 で、この作品に限って言うと、特徴的なのは「戦争」の影。この作品が作られたのは昭和26年だから、戦争が終わってそれほど経っていない。映画の中でも言われているように、不意に戦争で行方不明になった家族が帰ってきたりもする頃、その戦争の影というものが映画全体に漂っているような気がします。特に、両親の表情にある曇りはその戦争が落としていったひとつの影であるような気がします。リアルタイムでこの映画を見た人たちにもまた、戦争の影というものが落ちていたのだろうとも思いました。

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