Esther
1986年,イスラエル=イギリス,97分
監督:アモス・ギタイ
脚本:アモス・ギタイ、ステファン・レヴァイン
撮影:アンリ・アルカン
音楽:クロード・バートランド
出演:シモーナ・ベンヤミニ、モハマド・バクリ、シュメール・ウルフ、ジュリアーノ・メール

 ここはインドから中東まで100以上の州を治めるペルシャ王の宮殿であることが説明される。その王の宮殿には各地から美女が集められ、ハーレムが作られる。そのハーレムの中から王妃となったエステルとその養父モルデカイ、王の腹心アマンの間で繰り広げられる物語。
 とはいっても、アモス・ギタイだけに、純粋なコスチュームプレイではなく、現代に問題を投げかける作品になっている。ドキュメンタリーをとりつづけていたギタイ初の劇映画。

 過去の時代、ペルシャが栄えていた時代、おそらくヨーロッパの中世にあたる時代、そんな時代を想定しているようでありながら時折、車のエンジン音やクラクションなど現代にしか存在しない生活音が入る。
 物語はというと、ユダヤとアラブという現代のイスラエル-パレスティナに通じる対立構造を描いている。したがって、映画が進んでもその生活音がなくならないばかりかむしろ増え、さらにあからさまに現代的な音になっていくのを耳にしてこの映画によって主張されているのは「これは決して昔話ではない」ということなのだと気付く。
 表現における齟齬から推論して自ら気付いたこのことは、映画によって直接的に語りかけられたことよりも心に深く響く。この映画はその心理を巧みに利用し、われわれに気付かせ、そしてその「気付き」を最後の長い長い1カットのシークエンスで裏付ける。
 この映画がほとんど1シーン1カットで撮られているのは、なぜか。映画になぜということはないのだけれど、ここまでかたくなに1シーン1カットに固執されると考えてしまう。単純にドキュメンタリーの手法をそのまま使っただけなのか。音の部分で映画作法を崩しているがために視覚的な部分では古典的な映画作法にことさらに従うことでバランスをとろうとしているのか。そのようなことも考えながら、私はこの1シーン1カットの画面にアンチ・クライマックスを感じる。この映画はクライマックスを避ける。劇的な場面がない。盛り上がりそうな場面ではそれを避ける。その際たるものは終盤の絞殺刑のまえの少年たちの闖入。盛り上がるべき場面でそれをぶち壊す。そしてわれわれを現代へと立ち返らせる。クライマックスが存在しないことで現在へとスムーズにつながる。1カットの中に過去と現在が混在していても、困惑はするが受け入れることはできる。そんな感じがした。

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