Kippur
2000年,イスラエル=フランス=イタリア,127分
監督:アモス・ギタイ
脚本:アモス・ギタイ、マリー=ジョゼ・サンセルム
撮影:レナート・ベルタ
出演:リオン・レヴォ、トメル・ルソ、ウリ・ラン・クラズネル、ヨラム・ハタブ

 ヨム・キプール戦争の勃発とともに、部隊から呼び出された予備役兵のワインローブとルソ。しかし、国境地帯はすでに交戦中で、自分たちの部隊にたどり着くことができない。どうしようかと思いあぐねていたとき、車が故障して困っていた軍医に出会い、彼を連れて行った救急部隊に入った。
 ギタイ監督に実体験をもとに撮ったというだけあって、とにかく戦場から負傷者をヘリで運び出す彼らの姿は非常にリアル。

 ギタイ映画はサウンドがとても印象深い。この映画の冒頭も、町中に響く祈りの声が閑散とした街の中にこだまするさまがとても美しい。そして、全般にわたって耳にとどろくヘリコプターの音。それはとにかくうるさい。まさにセリフをかき消す音。しかし、それはその音がやんだとき、あるいはその音にならされてしまったとき、不意に襲ってくる何かのための伏線か? 
 それにしても、負傷者や爆撃がこれほどリアルに描かれているということは、相当予算もかかっているはずで、それはつまりアモス・ギタイが世界的に認められてきたということだろう。それはさておき、このリアルさにもかかわらず、この映画には敵の姿が一度も現れないというのがとても興味深い。戦争映画というと、必ず敵が存在しているはずで、この映画でもシリアという具体的な敵が存在して入るのだけれど、それが具体的な像として映画に現れることは一度もない。現れるのはシリア軍が打ち込んでくる砲弾だけ。この敵の不在にはいったいどのようなメッセージがこめられているのか? 戦争において敵の存在とはいったいなんであるのか? 当たり前のように敵の兵士が登場する場合よりも、この方が敵というものについて考えさせられる。シリアとその背後にあるソ連という漠然とした敵は存在し、そこに兵士が存在していることは明らかなのだけれど、そのシリアの兵士たちと、イスラエルの兵士たちの間にどれくらいの違いがあるのか?シリアのワインローブたちも砲弾の下をくぐって負傷兵たちを運んでいるのだろう。
 そのように考えると、どんどんわからなさは増すばかり。日常からすぐに戦場へと赴き、戦場からすぐに日常へと復帰したワインローブにとって戦争といったいなんだったのか? 人を狂気に追いやりすらするほどの恐怖を伴う戦闘をどのように受け入れているのか?

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