1953年,日本,85分
監督:溝口健二
原作:川口松太郎
脚本:依田義賢
撮影:宮川一夫
音楽:斎藤一郎
出演:木暮実千代、若尾文子、河津清三郎、斎藤英太郎、浪速千栄子

 芸者の娘栄子は、母を亡くし、叔父に邪険にされ、零落した父親を頼ることもできず、母の昔の仲間を頼って祇園にやってきた。一軒の館を構える芸者美代春は保証人のなり手もない栄子を芸者として仕込むことに決めた。一年あまりの稽古を終え、美代春の妹美代栄としてはれて舞妓になった栄子だったが、その世界ははたから見るほどきれいなものではなかった…
 溝口、宮川に脂の乗り切った木暮美千代、そして出演2作目で若々しい若尾文子と役者はすっかりそろい、駄作が生まれるはずもない。

 溝口の「間」。この映画の前半、溝口はふんだんに「間」をとる。ひとつのシーンの始まりや終わりで、シーン自体とは無関係なものや人を映す。わかりやすいのはシーン頭に何度かあるカメラの前を通過する人々だろう。最初のシーンでもまず目を引くのは物売りの女。しかしこの女は物語とは関係がない。その後シーンの頭でカメラの前を人や自転車が通過する。その後本来の登場人物がフレームに入ってくるという構成がとられる。この「間」がゆったりとした映画の流れを作る。しかし映画の後半になるとこの「間」ははぶかれ、物語はテンポを持って展開してゆくようになる。シーンとシーンの間に挟まれるのはせいぜいフェードアウト程度だ。
 話を戻して、この「間」を作り出しているのは、完全な固定カメラの映像。舞台に登場人物が入ってくることからシーンが始まることが多い演出。この固定カメラというのは、もちろん宮川一夫の得意の範疇だ。低目から固定カメラで丹念にひとつのカットを作り上げる。舞台の奥で展開される主な物語に対して前景で演じられる遊び。美代春が生活に困窮しているあたりの場面で、薄暗い屋敷の中で、しかし前景の右端に大きく過敏に生けられた花が写っていた場面が非常に印象的でった。いくら困窮していても芸者であるからには華やかさを失ってはいけないという気持ち。その奥で起こっている出来事はその華やかさとは無縁のつらい物語なのだけれど、その花があるだけでそのシーンの印象は大きく変わった。
 溝口としては、戦後の様変わりした日本で、彼が愛した(と思う)祇園の町がどう変わっていくのかを描きたかったのだろう。完全に古い風習の上に立っている町と新しい日本とのかかわり方は確かに面白い話だ。復興に頭を取られる人たちは祇園のことなど忘れ、それが廃れようとどうしようとかまいはしないだろうけれど、依然そこには生きている人たちがいて、生きている風習がある。そのことを溝口は忘れずに考えていた。祇園のお茶の先生の「外国人はフジヤマ、ゲイシャとばかり言う」という台詞は今も生きている。そして、祇園は多くの外国人が訪れる観光地になる。祇園が祇園であり続ける姿をとろうと考えた溝口は懐古趣味のようでいて、実は先見の明があったのかもしれない。

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