1956年,日本,86分
監督:溝口健二
原作:芝木好子
脚本:成沢昌茂
撮影:宮川一夫
音楽:黛敏郎
出演:京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子、沢村貞子

 売春防止法が制定されるか否かという時期の吉原。その売春宿の一軒「夢の里」で働く売春婦たちの生活を描いた群像劇、店一番の売れっ子、結核の夫と子供を抱え通いで働く女、子供を養うために働く女、などなどそれぞれの物語が語られる。
 若尾文子、京マチ子など豪華な女優人に加えて、カメラは宮川一夫。助監督には増村保造というそうそうたる面々をそろえた作品。

 物語のほとんどを占めるのは売春婦たちの単純な生活。それぞれにドラマがあるけれど、行き着く先がわからないまま流れていく物語。それは行き着く先を思い描けない売春婦たちの人生と呼応するものだろう。ただその日その日の一喜一憂だけがそこには存在しているように見える。
 それをしっかりとらえるのはいつものように見事な宮川一夫のカメラだが、この作品では必ずしもどっしりと構えているわけではない。いつもの固定、ローアングルのショットは見事で、物語の前半ではカメラもそのようにどっしりと構えている。しかし物語が動いてくるにつれ、カメラも動いたり、俯瞰で撮ったりと自由になる。
 物語とカメラの両方が劇的に動き出すのは、映画もかなり終盤に入ったあたりで、そこまではなんとなくまとまりのないばらばらの物語の集合という印象だったものが急激にまとまってくる。それはおそらく最後の10分とか15分くらいのものだけれど、そのあたりは本当に食い入るように画面に見入ってしまう。これは今言ったカメラもさることながら、溝口のそこへの話のもっていき方に尽きるのだろう。ただ淡々と過ごしているように見えていた売春婦たちが、そこにかかえていたさまざまなもの。それが怒涛のように噴出してくるその最後の10分か15分は本当にすごい。しかもその怒涛のように噴出す、一人の人間にとって重要なはずのことごともそれまでの日常生活と同じように描いてしまうのが溝口だ。溝口は数々の事件もそれまでの日常生活と同じ淡白さで捕らえ、彼女たちの感情の噴出をことさらに表現しようとはしない。彼女たちの心に呼応するように動くのは宮川のカメラだけだ。そしてそのカメラも激しい彼女たちに擦り寄るのではなく、逆に遠ざかることによって表現しようとする。
 その控えめな描き方がまさに溝口らしさといえるだろう。廊下で倒れた若尾文子の顔を映すことなく、すっと画面転換してしまう。それがまさに溝口健二というものなのかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です