Psycho
1960年,アメリカ,109分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:ロバート・ブロック
脚本:ジョセフ・ステファノ
撮影:ジョン・L・ラッセル
音楽:バーナード・ハーマン
出演:アンソニー・パーキンス、ジャネット・リー、ジョン・ギャビン、ヴェラ・マイルズ

 フェニックスの不動産会社に勤めるマリアンは、たまに出張で町にやってくるサムと昼休みに逢い引きをし、会社に戻る。そして、売り上げの4万ドルを銀行に預けにいくように言われるが、マリアンは頭痛を口実に、帰りに銀行によるといってその4万ドルを持って会社をあとにした。
 ヒッチコックの代表作のひとつであると同時に、映画史上でも古典的ハリウッド映画からアメリカン・ニューシネマへの移行に際する重要な作品と位置づけられるという作品。
 ヒッチコック自身が上映館に「観客の途中入場を禁ずる」というお達しを出したほどなので、見たことない人は、なるべくこれ以上の予備知識を入れないようにしてとりあえず映画を見ましょう。

 この映画はさすがに、何度も見ていて話も覚えているので、何も知らないつもりで見ることはできませんが、わたしの気分としては、初めて見る場合の事にも触れたい。
 この映画を初めて見ると、おそらくあの衝撃シーンにまさしく衝撃を受けるだろう。それは、シーン自体の主人公であったはずのヒロインが死んでしまうということから来る衝撃だ。当時の古典的ハリウッド映画(乱暴に言ってしまえば、観客の視点を主人公と一致させ、最初から最後まで主人公の視点から物語を語る映画)しか見てこなかった観客と比べると、その事実を受け入れることは容易だけれど、その場面を「え?」という一種の驚きを持ってみることは確かだろう。それこそが映画史的に言って非常に重要なことなのだけれど、映画史のことは別にどうでもいいので、今見た場合を語りましょう。今見ると、結局のところ、後半こそが映画の主題で(だからこそ『サイコ』という題名がついている)前半は後半の謎解きへと観客をいざなうための導入であるような気がする。だから、衝撃的であるはずの殺人シーンがイメージとして流布していても、映画の本質的な部分は失われないということだ。
 ということなので、現在では内容を知っていようと知っていまいと、『サイコ』という作品の見え方にそれほど違いはないということになるだろう。そのように考えた上で、この作品のどこがすごいのか? と考えると、それはどうしても歴史的な意味によってしまう。それは『サイコ』以後、サイコのような作品がたくさん作られ、初めて見るにしろ、何度目かに見るにしろ、サイコ的な要素をほかの映画ですでに見たことがあるからだ。音の使い方。それはまさにサイコがサイコであるゆえん。観客の恐怖心をあおるための音の使い方。それはサスペンス映画あるいはホラー映画の基本。むしろそのサイコ的なオーソドックスな使い方を避けることによって映画が成立する。精神分析的な謎解き、あるいは恐怖の演出、それはまさしく「サイコ・スリラー」というもの。
 つまり、『サイコ』を見ると、映画史を意識せずには入られないということ。それはそれより前のいわゆる古典を見るときよりも、である。まあ、見るときはそんなことを意識せず見て、楽しめばいいのですが、見終わってちょっと振り返ってみると、そんな歴史が頭に上ってしまいます。
 マア、細部に入れば、いろいろとマニアックなコメントもあるのですが、そのあたりはまた次の機会に。

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