Welfare
1975年,アメリカ,167分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 ポラロイド写真で次々と写真をとられる人々。おそらく、福祉を受け取るための身分証を作るのだろう。福祉センターにはたくさんの人がやってくる。そしてたくさんの人が待っている。職員たちはきびきびと働いているが、それでもやってくる人たちとの間に衝突は絶えない。役所ならどこでもありそうな風景だがどこか違う。そんな福祉センターと、その人々を映した作品。

 官僚主義的な役人たちとそれに振り回される貧しい人々、という構図がそこに浮かんでくるのだろうと予想して見る。それは福祉センターが舞台となる以上容易に予想できることだ。
 しかし、実際底に現れるのは、激昂し、だまし、何とかしてお金を得ようとする人々。自分の権利を強固に主張し、役人たちを批判する人々だ。もちろん、福祉を受けるのは彼らの権利であり、それを主張するのはかまわないはずだ。しかし、その感覚がなかなか理解できないのは日本人だからだろうか? そんな違和感を抱えたままみると、彼らはなんともエゴイスティックであるように見えてしまう。
 そのように見えてしまうのは、必ずしも受け手だけの問題ではなく、ワイズマンの作り方にも原因があるだろう。この映画に登場する福祉局の役人たちは基本的に忠実に仕事をこなし、むしろ親身になってやってくる人たちのために力を注いでいるように見える。つまり、そこに登場する人々の誰もが間違ってはおらず、非難を浴びるいわれもない。そんなカレラを反目させるのは、制度であり政府であるのだ。そこにワイズマンの力点があるような気がする。
 途中で登場するヒスパニック系のおばあさんは、ひたすらスペイン語でがなりたてる。字幕もないし、基本的には何を言っているのかわからないけれど、何度も「gobierno」という言葉を口にする。それはスペン語で政府という意味で、どのような文脈で発せられたかはわからないが、何らかの形で政府を非難していることは確かだろう。
 ワイズマンがこの老婆を、そしてこのセリフを生かしたのはなぜだろうか?ひとつは黒人女性との話しに傍若無人に割り込んでくる老婆の面白さがあるだろうが、この意味としては比較的とりにくい(アメリカ人のどれくらいがスペイン語を理解するのかわからないけれど)言葉による直接的な批判をあえて残したというのもあるのではないだろうか。

 最後に登場する男性、哲学的、あるいは文学的なことをしゃべりながらも、その発言はどこか狂人じみたところがある。狂っているというわけではないけれど、貧しく、孤独な人にありがちな(といっては語弊があるかもしれないが)行動。大きな声で独り言を言ったり、相手に通じにくい話をするということ。そんな男性を見て思う。ワイズマンは普通の人々を彼ら自身は強く意識しないままにフィルムという媒体に定着させてしまう。本来ならば誰も聞いていないような、聞いていたとしても数分も経てば忘れ去られてしまうような、その発言を、その文学を半永久的な言葉として残す。
 この人の姿を見て、「この映画はこの人で終わるんだ」と思った。それほどまでに彼はワイズマンの世界にぴたりとはまる。彼をフィルムに残したということ、そこにこそワイズマンの偉大さがあるのかもしれない。

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