Racetrack
1985年,アメリカ,114分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 放牧されている馬たち。親子で草を食む。厩舎では新たに仔馬が生まれる。そばで見守る人たちはそれほど心配もせず、産むがままに任せている。
 競馬場そのものではなく、競馬馬たちが放牧されている牧場から始まるこの映画は競馬場の物語ではあるが、競馬場に来る人々の物語というよりは、競馬にかかわる人々と競馬場というものの物語である。馬主、騎手、調教師などにカメラを向けて、競馬を取り巻く状況をゆったりと描く。
 ワイズマンにしてはイージーというか、ゆったりとした雰囲気で、のんびりと見られる映画。

 映画は親子の馬が草を食む放牧で始まり、そして分娩のシーンへと続く。あるいは分娩のシーンも合わせて牧場の場面から始まるといってもいい。それは競馬そのものからは少し離れた部分であり、どのような文脈で語られているのかは全くわからない。そこだけ見ると、これが親子の物語であるかもしれないという考えが頭をよぎるが、馬が主人公ではなさそうなので、それはあくまで描写のひとつに過ぎないのだと考える。
 映画はそこからゆっくりと競馬そのものに近づいてゆく。
 この映画に特徴的なのは会話が少ないということだろうか。ワイズマンの映画に登場する(アメリカ)人たちはとにかくよくしゃべる。カメラがあるからなのか、アメリカ人の特徴なのかはわからないが、とにかくよくしゃべる。しかし、この映画に出てくる人はあまりしゃべらない。普通は、会話によって人間関係がわかったり、映画の論点がわかることが多いのだけれど、この映画ではわからない。それは映画の対照が大規模すぎたせいもあるかもしれないが、最後まで個人が特徴的なキャラクターとして固定されることはない。

 なので、この映画は捉えにくい。個人が個人として同定できれば、あるいは映画の描く空間を把握できれば、映画をひとつのまとまりとしてみることができるが、この映画ではそのような映画の把握は難しい。
 だから、テーマとか、時系列をたどってみてみようとするが、テーマらしいものも見つからないし、時間の手がかりとなるものもない。
 それでもなんとなく映画を見続けていると、突然パーティの場面が始まる。この場面と続く競馬場の場面(おそらく重賞レースが開かれている)でなんとなくメッセージというかワイズマンの思いが伝わってくる。それは競馬がアメリカの人たちにとって日常であるということ、そしてそれは古き良き時代へのノスタルジーであるということ。
 この競馬場はおそらくNY近郊にあって、そこにはさまざまな人種や階級の人が混在しているのだけれど、そこで掛かる音楽はヒップホップではなく、カントリーやブルースである。男たちはカウボーイハットをかぶり、子供も駆け回っている。アメリカがアメリカとしてまとまるノスタルジーがそこにはあり、そのようにして時代を超えることを容易にしているのが競馬場という場であるということなのだろう。競馬場にくれば、昔のアメリカ人の日常に思いをはせ、今も変わらぬアメリカがそこにあることを確認できる。そのような場所としてワイズマンは競馬場を描いているような気がする。

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