La Comedie-Francaise ou l’amour joue
1996年,アメリカ,223分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 フランスのパリにある国立劇場コメディ・フランセーズ。歴史と伝統を誇るこの劇場と劇団の活動を追う。劇団の運営会議からリハーサル、実際の舞台、引退する役者の引退パーティなどを映すが、一番中心になるのは、やはりリハーサルと本番の舞台。舞台がどのように作られるのかを中心に描く。
 ワイズマンとしては座長を中心として、劇団をどのように切り盛りしていくのかに興味があるようで、そのあたりの描写が面白い。

 まず、このワイズマンの映画にはプロの役者が出てくるという展で、他の映画とは明らかに違う。劇映画を一本撮ったことがあるけれど、それ以外ではプロの役者が出てくるのは初めてなのだ。そこで気付くのは、ドキュメンタリーといえども彼らがいかに演技しているかということだ。稽古や舞台での彼らの役者としての輝きはすごいが、舞台を離れたところでも彼らは演技する。それはわざとらしくというわけではないけれど、明らかに何かを演じている。そう感じるのは、他のほとんどの作品に登場する人たちとの違いだ。この映画に登場する役者たちは役者らしく振舞っているように見える。カメラに映ることを了解し、自分を演じる。そのような姿に見える。
 このことから逆に、他の映画に登場する普通の人々も自分を演じているのだということに気付く。ただその演じ方がプロの役者とは違ってぎこちない。自分を演じているつもりが、興奮して完全に素の自分が出てしまったり、映っていることにたえられなくなったりする。ワイズマンはそのようなものも含めて写し取っているのだから、それでいい。
 ワイズマンはカメラが存在するということで、撮影されているということを了承していることで、すでに人々は演技をしていると言った。なかなかこのことがわからなかったのだが、この映画を見ると、そのことがなんとなくわかるような気がした。舞台での演技は間違いなく演技だけれど、舞台を下りた部分で映っている時でも一種の演技をしている。それは作り物ということではなくて、「自分」というものを場所や相手に合わせて変化させるのと同じようにカメラの前での「自分」を演じているということだ。『モデル』の終盤でモデルたちが騒いでいるシーンを思い出したのは、そのシーンでは彼女たちが「モデル」を演じていたからだろう。

 もうひとつ、この映画で気になったのは、内と外ということ。ワイズマンは執拗に外の様子、パリの街の様子をインサートする。この建物の内部のシーンとシーンの間に外の風景を挟むというのは、ワイズマン作品のほとんどに共通して見られる方法だが、この映画では特にその対比が大きい。『臨死』のように仮想的な一日を作り出すというわけではなく、単純にコメディ・フランセーズ対その外部という構造を作り出すだけだ。
 そこには何かワイズマンなりの批評精神というか世界観があるような気がする。コメディ・フランセーズはそもそも非日常的な空間であるけれど、その空間が役者にとっては日常空間である。チケットを求める人々はそこに日常からの逃避かあるいは超越を求めてやってきている。しかし、役者やスタッフにとってはそこは仕事場であり、まごう事なき日常なのである。よく考えるとワイズマンはこれまでにも動物園や病院などそのような日常と非日常が交錯する空間を対象としてきている。
 そんな内部にとっては日常的である非日常的空間の集積こそが現実であるという全体像がそこから見えてくるような気がする。一人の視点からは画然としている日常と非日常という座標が、社会においては複雑に交錯しているということ。ひとつの空間を日常と捉えるか非日常と捉えるかということによるその捉え方の違い、そこから生じる齟齬(この映画ではその齟齬の部分はあまり描かれていないが、風景による対照である種の乖離を表している)、そのようなことに意識的であることは、現実に対する姿勢を大きく変化させると思う。

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