Belfast, Maine
1999年,アメリカ,247分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 朝焼けの中、ロブスターの漁をする舟。かごを海底から引き上げ、そこからロブスターを取り出す。そんな漁業が行われているベルファスト。続いてクリーニング屋が映り、さらに町のさまざまな場所が映し出される。
 ワイズマンの30本目のドキュメンタリーに当たるこの作品はひとつの施設や組織ではなく、町全体を被写体とした。そのことによって、さまざまな要素がカメラに切り取られることになる。それはこれまでにワイズマンが映してきたさまざまなものを包括するものであるという一面も持つ。

 これはワイズマン流のひとつのアメリカ史なのだと思う。ニューイングランドにあるこの町は南北戦争以前からあり、教会がいくつもあり、白人しかおらず、老人が多い。こんな小さな町であるにもかかわらず、あらゆるものがある。何もないという言い方もできるが、逆に何でもあるという言い方もできる。商業、漁業、農業、工業といった産業もあるし、商店や映画館、裁判所、図書館、病院など、アメリカの社会に必要なあらゆるものがこの小さな町(小さな町であることは画面から十分に伝わってくるが、資料によれば人口6000人の町らしい)にある。 具体的な歴史も出てくる。南北戦争を研究する男、アーサー・ミラーやハーマン・メルヴィルについて教える授業。それはアメリカ史そのものである。
 これを見てワイズマンがどのような歴史観をもっているかということを推測するのはなかなか難しいが、少なくともワイズマンはあくまでもアメリカにこだわっている。そして、おそらくアメリカを活気に満ち溢れた国というよりは、年老いた国と見ている。それは他の国との比較という意味ではなくて、歴史を振り返ってみてアメリカも年老いたということを言っているのだと思う。老人人口は増え、医療に膨大な金が掛かる。南北戦争のころのような新しいものを生み出す活力はすでになく、工場のように同じものを作り続けているだけ。この映画を見ているとそのようなイメージが浮かんでくる。
 だからといって悲観しているわけではなく、悲観とか楽観という視点を超えて、あるいはそのような視点には踏み込まないで、そのようなアメリカを問題化する。歴史を取り出して、その問題を明確化する。ワイズマンがやっているのはそのようなことだ。

 とにかくこの映画にはこの町には老人ばかりがいる。一人のおばあさんがフラワーアレンジメントの教室と、南北戦争の講義とおそらく両方に出ていたので、必ずしも老人が大量に要るというわけではないだろうが、この町が高齢化していることは確かだ。そんな中で問題となってくるのは、医療や社会福祉という問題だ。それはワイズマンがこれまでに扱ってきた問題で、この映画はワイズマン映画の見本市のような様相を呈する。
 それらの問題は、つまりいまだアメリカにおいて問題であり続け、ワイズマンにとっても問題であり続けるようなことだ。
 わたしが面白いと思ったのは裁判所の場面。たくさんの被告人が呼ばれ、一人ずつ機械的に罪状認否をして言く。有罪だと主張すればその場で罰金刑が科され、無罪を主張すると、裁判になる。そのオートマティックな裁判所の風景は、缶詰工場の風景を思い出させる。これはもちろんアメリカの裁判の数の絶対的な多さからきていることだが、ここにもアメリカの病の一端があるような気がする。
 それも含めて、この町はアメリカが抱えているあらゆる問題を同様に抱えている。小さな田舎町。その風景はおそらく多くのアメリカ人にとっての原風景に通じるものがあるのだろう。そして、歴史という時間軸とさまざまな事象という事象平面によって提示されるこの町の全体像をアメリカの縮図とする。ワイズマンのカメラはそんな仕掛けを用意してこの町を映し出す。

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