Ballet
1995年,アメリカ,170分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 映画はABT(アメリカン・バレエ・シアター)の事務所から始まる。電話に向かって大声で交渉を行っている。つづいて練習風景。車椅子のお婆さんが振り付けをしている。車椅子に座っていても、凛とした姿でもともとバレリーナだったことが見て取れる。その後も練習風景を中心として講演に向けた準備を着々と進めていく光景を追っていく。
 世界的に有名なABTの内部に始めてカメラが入った。練習風景から、舞台裏、公演に至るまで克明に記録したのがこの映画。ワイズマンらしい鋭さよりも映像の美しさが際立つ作品。

 ワイズマンについて語るとき、どうしてもその映画が提起する問題について語ってしまいがちである。それはもちろんワイズマンがそうさせているからであって、ワイズマンの映画とはおそらく本質的に観客を問題に意識的にさせるための道具であるのだろう。
 しかし、ワイズマンがそのように映画をテキストとして読むことを要請してるとは言っても、単なるテキストであるわけではない。それがテキストとして読まれることを可能にしているのは、映像と音声であり、その(視覚的と聴覚的な)造形の見事さが映画の根幹を支えていることはいうまでもない。
 この映画を見てまず意識に上るのは、その映像の美しさだ。もちろんそれはABTのダンサーたちの体や動きの美しさに負うところが大きいが、ワイズマンはそれを見事にフィルムに焼き付ける。この映画を見ると、ワイズマンの映画もまたテキストである以前に映像であるのだということに気付かされる。

 この映画はそんなワイズマンの美的/芸術的要素が前面に出ている映画だ。ABTという一つの集合体を被写体とするという意味ではこれまでのスタンスと変わりはない。しかし、その被写体は今までになくいわゆる政治/社会的な文脈よりも文化的な文脈におかれるのにふさわしい被写体である。
 テーマというかテキストを抽出するならば、人々あるいは社会と芸術との関係性ということがいえ、それは続く『コメディ・フランセーズ』にもつながっていく問題意識である。
 特権的空間を日常的空間として描く点も『コメディ・フランセーズ』と共通する。ワイズマンはこのふたつの映画によって特権化されがちな芸術(高等芸術)を日常的なものに意味づけなおすということをやっているのではないか。ギリシャの青空の下で行われるリハーサルの風景、それはえもいわれぬ美しさを持っているけれど、それは手の届かないところにあるのではなく、それを眺める少女の身近にあるものである。そのようなメッセージが画面から伝わってくる。そもそもバレエを映像に捉えること自体、日常的空間への転移の一種であるだろう。
 そのようにして特権を剥ぐことによって、ワイズマンは芸術を身近なものに感じさせることに成功している。そしてそれは価値を貶めるのではなく、むしろ高める。ワイズマンのフィルムに刻まれた練習風景を見ていると、本番が見たくなる。しかも本物の舞台を見たくなる。
 ワイズマンの目的は人々を舞台に連れて行くことではないだろうけれど、少なくとも芸術と日常を密接に結びつけること。これがワイズマンが意図したことの一つであることは間違いない。

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