1961年,日本,99分
監督:川島雄三
原作:富田常雄
脚本:井手俊郎、川島雄三
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:若尾文子、山村聡、フランキー堺、藤巻潤、山茶花究

 九段で「ミズテン芸者」をやっているこえんは芸者といいながら、芸はなく、お客と寝てお金をもらう。そんな彼女は芸者屋の近くでしょちゅうすれ違う学生やお得意さんに連れてこられた板前の文夫なんかにも気を遣る。
 そんな女の行き方を川島雄三流にハイテンポに描く。若尾文子が主演した川島雄三の作品はどれも出来がいい(他に『雁の寺』『しとやかな獣』)。この作品も単純なドラマのようでいて、非常に不思議な出来上がり。細部の描写が面白いのはいつものことながら、この映画は若尾文子演じるこえんのキャラクターの微妙さがいい。

 淡々としているようで、驚くほど展開が速い。スピード感があるというのではなく、時間のジャンプが大きい。そのあいだあいだを省略する展開の早さが川島雄三らしさとも言える。このテンポによって描かれるのは主人公こえんの心理の変化である。心理の変化といっても、その内面を描こうとするのではなく、外面的な描写からそれを描こうとする。つまり実際に映画に描かれるのは、主人公の心理に与える影響が大きいエピソードだけで、その出来事と出来事の間は時には1日、時には1年離れているという感じ。
 いろいろな「男」が登場しますが、一番気になったのはフランキー堺の板前ですね。必ずしも彼が一番好きだったというシナリオではないと思いますが、わたしはそのように見ました。藤巻潤の学生さんはそれほどではないように思えるのは、やはり一度(ではないけれど)肌を合わせたかどうかの違いなのでしょうか。こえんのこのキャラクターならば、そのことが意外に大きな要素になるような気もします。その辺りが川島雄三というか、この時代の日本の(というより大映の)映画らしいところということもできるかもしれません。
 フランキー堺の板前といえば、この映画で一番好きだったシーンが、こえんが二の酉の日に一人ですし屋を尋ねていく場面。シーンが切れてすし屋が映ると、何故かベートーベンの『運命』がかかる。それがラジオかレコードか何かだということはすぐわかるんだけれど、すし屋このBGMというミスマッチが気をひく。そして、風邪気味だといった文夫にこえんが「熱があるの?」ときくと「いいえ」とそっけなく言う。それはその前のシーンのこえんと全く同じセリフで、その辺りが非常に詩的。

 プロットの展開の仕方は川島雄三「らしい」ものといえるけれど、このあたりの描写は川島雄三「独特」のもの。この細部の描写を描く感性は川島雄三しか持っておらず、彼の映画でしか見ることができない独自性だと思う。もちろんそれが絶対的にいいというわけではないけれど、この日本映画の黄金時代に独特のキャラクターを持つことができた川島雄三の偉大さを今でも認識できるのは、この独特さにある。
 山村聡のキャラクターが他の映画とちょっと違うのもステキ。べらんめい調で話しながら、ちっちゃいエプロンをしてすき焼きの用意なんかをしているところを見ると、これも一種のミスマッチで、しかしそれが面白みを出しているそんな場面。
 ミスマッチと奇妙な符合。それがこの映画のキーになっていて、物語は奇妙な符合で展開され、映画の細部はミスマッチで彩られる。その辺りがなんだか微妙でいい感じ。最初はそうでもないけれど、見ているうちになんだかだんだん気持ちよくなっていく、そんな映画でした。

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