Monster’s Ball
2001年,アメリカ,113分
監督:マーク・フォースター
脚本:ミロ・アディカ、ウィル・ロコス
撮影:ロベルト・シェイファー
音楽:アッシュ・アンド・スペンサー
出演:ビリー・ボブ・ソーントン、ハル・ベリー、ピーター・ボイル

 州刑務所の看守ハンクは病気の父と同じく看守をする息子のソニーと暮らしている。ハンクは父の人種差別意識を引き継ぎ、息子のソニーを訪ねてきた黒人の少年たちを銃で追い返す。
 黒人の死刑囚マスグローヴの死刑執行の日、息子のソニーは執行場へと付き添う途中に戻してしまう。執行後、ハンクはソニーを激しく怒り、殴りつける。
 演技には定評のあるビリー・ボブ・ソーントンと、この作品でアカデミー主演女優賞を獲得したハリー・ベリーなんといってもこの二人がいい。特にハリー・ベリーはとても美人でいい。

 映画自体はたいした映画ではありません。アメリカの白人の中にいまだ人種差別主義者がいっぱいいることなどは繰り返し描かれてきたことだし、実際にそうであることも理解できる。この映画は人種差別を中心として、家族や死刑というさまざまな問題を含んではいるけれど、それが行き着く先は結局のところ恋愛で、セックスで、人を愛するということが異性間の関係に集約されてしまっている。
 ハンクが息子を「憎んでいる」といってしまったり、父親を施設に入れてしまったりする、そのことを考える。そのことを考えると、この男はやはり自己中心的で、他人を思いやっていると見える行動もヒューマニスティックなものというわけではなく、実は弱さの顕れでしかない。もちろん人間は弱いものだけれど、この映画はそこには突っ込まない。
 この映画から人種の問題を取り去ったら何が残るだろうか。それは単なるメロドラマ、息子を失った男女が出会い、互いに慰めあう。新たな愛に出会う。そういう話。

 果たして、ハンクは人種差別主義を克服したのだろうか? この2時間半の時間を見る限り、それは克服されていない気がする。レティシアに大しては差別もないが、それはおそらく「黒人」という意識がないだけのこと。近所の自動車修理工場の家族とも仲良くし始めるけれど、それも彼らを「黒人」の枠からはずしただけのことのような気がする。「黒人」一般に対する差別は温存したままで、「仲間」として認められる黒人は受け入れる。そのような態度に見えて仕方がない。
 そう見えるからこそわたしには、この映画が人種差別主義の根深さを示す映画だと思うのだけれど、製作者の側にはそんな意識はなく、一人の男が差別を克服する映画という考えだろうし、見るアメリカ人もそういう映画としてみているような気がする。
 それは、本来は黒人と白人のハーフである、ハリー・ベリーを「黒人初のアカデミー賞女優」といってしまうアメリカの人種意識から推測できることだ。それはアメリカの人種意識が「白人」を中心として作られていることを示している。「白人」でなければ、白人の血が半分入っていようと「黒人」になってしまう。つまりちょっとでも黒ければ「黒人」、ちょっとでも黄色ければ「アジア系」となる。
 この映画はそんなアメリカの人種意識をなぞっているだけで、何も新しいものもないし、アメリカの人種意識を変えるものではないと思う。だからわたしは、「たいした映画ではない」という。

 たいしたことない話が長くなってしまいましたが、わたしがこの映画で一番気に入ったのはハリー・ベリー。『X-メン』などではちょっとわかりませんでしたが、この映画のハリー・ベリーは本当に美人。さすがミス・オハイオ、ミス・コンも捨てたものではないですね。わたしはこのハリー・ベリーの美しさはいわゆる「ブラック・ビューティー」ではない、一般的な美しさだと思います。黒人でなくても受け入れられる美しさ。この映画は本当にハリー・ベリーの映画。主演女優賞をとっても当然、という感じです。
 映画にとって美女が重要だということもありますが、人種の問題に立ち返っても、彼女のような美女の存在こそが人種の壁を突き崩すきっかけになる可能性を持っている。そんな気が少ししました。

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