2000年,日本,53分
監督:佐藤真
撮影:田中正毅
音楽:経麻朗
出演:西島秀俊、牛腸茂雄

 1983年、36歳という若さで夭逝した牛腸茂雄という写真家がいた。
 彼の生い立ちからの一生を、数々の作品を通して、映像作品や、本人の録音も交え、物語として紡いでいく。映画作家佐藤真を自己主張しながらも、牛腸茂雄の世界を再現することに心を配る。
 何かの物語が展開していくというよりは、漠然としていて、どこか夢のような、心地よい映画。

 ゆっくりとしたテンポと、繰り返し。それがこの映画の特徴であり、リズムである。同じ写真が何度も登場する。坂道でおかしなポーズを取ってこちらに笑いかける少年。斜めに日が射す壁の前に立つ青年、花を抱えた少女…
 それらの写真が何度も繰り返し写されることによって、そのまなざしがじわりじわりと染み入ってくる。「見つめ返されているような気がする」という言葉も出てきたように、この映画に登場する写真に特徴的なのは被写体の視線がまっすぐカメラのほうを向いているということだ。それはつまり写真を見ている、映画を見ているわれわれを見返しているまなざし。佐藤真は牛腸の写真にあるその眼差しを捕らえたかったのだろう。
 その試みは成功し、われわれ牛腸の世界に捉えられる。彼が捉えた眼差しに絡めとられ、夢の世界へといざなわれる。その夢のような感覚を作り出すのは自然の映像である。牛腸の故郷の水田とショベルカーの対比、その現実の風景と牛腸茂雄という夢。

 この映画はいわゆるドキュメンタリーというよりは、作家の思い込みを映像化したエッセイのようなもので、どこかフィクションに近い。まあ、ドキュメンタリーとフィクションとの区別というのはあくまで便宜的なもので、これがドキュメンタリーだといわれるのは「牛腸茂雄という写真家が実在した」という事実によってでしかない。
 しかし、この映画で描かれる佐藤真に思い込まれた牛腸茂雄は、あくまで佐藤真にとっての牛腸茂雄であって、それは一種のフィクションである。これはルポルタージュではなくてエッセイであって、客観性などというものははなから求めていない。だからもちろんフィクショナルな牛腸茂雄を描いてもいいわけで、この映画はそのようなものとして存在する。
 だから、この映画をドキュメンタリーというのはむしろ間違いで、「事実に基づいたフィクション」と呼ぶほうがふさわしい。とはいえ、これも単なる言葉遊びで、本当に存在するのは映画だけなのだ。見る側がこの映画をどう見るかということが問題で、その捉えたものをどう呼ぶかは見た人おのおのの問題でしかないはずだ。わたしがこれを「事実に基づいたフィクション」と呼ぶのは、わたしが捉えた(と思っている)この映画の性質をこの言葉がよくあらわしている、と思うからに過ぎない。

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