1956年,日本,55分
監督:亀井文夫
撮影:武井大、植松永吉、城所敏夫、勅使河原宏、大野忠、亀井文夫
音楽:長沢勝俊
出演:寺島信子(解説)

 米軍基地の拡張が進む中、東京の近郊立川の砂川地区も、立川飛行場の拡張計画の用地となった。そのための測量が行われるが、先祖代々の土地を守るため拡張に反対する住民たちは測量を阻止しようと共同戦線を張る。闘争もすでに一年以上続き、映画も『砂川の人々』『砂川の人々・麦死なず』についで3作目となった。今回も測量隊による失敗のあと、武装警官が投入された。果たして砂川の人々は自分たちの土地を守ることができるのか…
 ピケを張る人々の中に混じり、まさに争いの渦中でカメラを回した迫力にあふれる作品。

 今思えば、このころからアメリカの軍事的身勝手さは明らかだった。どう考えても農民たちのほうに正当な権利があり、勝手に土地に入って測量などできないはずなのに、その測量を日本の国家権力にやらせ、自分たちは安全なところでほくそえみながら眺めている。そんなアメリカ軍を見るにつけ、なぜそのようにいられるのかと不思議になってくる。
 まあ、それはいいとして、この映画はメッセージがあまりに明確で、映画の中では明確に価値判断をしているわけではないけれど、その実情を見ていれば、それが言わんとしていることは明らかで、さらに亀井文夫が共産党員であるということも考えると、結論は言わずもがな。
 この映画を見ていると、亀井文夫の中立性を装った説教臭さというものが見えてくる。戦中の映画では亀井文夫は徹底的に中立であろうとしていた。それはもちろん反戦の主張をすることは検閲によって上映禁止になるばかりでなく、自らの見も危険にさらされるからだ。
 戦争が終わり、そのような規制がなくなっても、映画としては中立を保つ。どちらが正しいかを断言しない。しかし、カメラの視点は砂川の人々にあり、「人間の顔ではなく、青いヘルメットが迫ってくる」という言葉で警官隊のことを説明している以上、それを人間ではない人間として描いていることは確かだ。「人間対非人間」、その構図は日本軍が人々を戦争に駆り立てるために、日本人と中国人・英米人との対比に用いたものではなかったのか、人間主義あるいは自然主義に基づいて、戦争への危惧をうたった亀井文夫が、そのような非人間的な思想をそのフィルムのそこにこめていいのか? そんな気持ちが湧き上がってくる。
 果たして、どちらの亀井文夫が本当なのか。戦争中は規制のために自分を抑えていたのか、それとも自由をもてあまして言い過ぎてしまったのか。中立であろうとする心と、説教をしたいという欲求、そのふたつが常に亀井文夫の心の中にはあると思う。中立であろうという心が勝てば、そのときは素晴らしい映画が生まれるけれど、説教をしたいという欲求が勝ってしまったとき、その映画は失敗する可能性を秘めている。この映画は失敗とはいえないけれど、非難されるべき点もたくさんある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です