Nurse Betty
2000年,アメリカ,112分
監督:ニール・ラビュート
脚本:ジョン・リチャーズ、ジェームズ・フラムバーグ
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
音楽:ロルフ・ケント
出演:レニー・ゼルウィガー、モーガン・フリーマン、クリス・ロック、グレッグ・キニア、アーロン・エッカート

 カンザスの田舎町でウェイトレスをしているベティは昼メロ「愛のすべて」に夢中で、その主人公の医師デヴィッドにあこがれていた。誕生日にはウェイトレス仲間からデヴィッドのパネルをもらい、友達と出かけようと中古車ディーラーの夫のビュイックを拝借した。しかし友達は都合が悪く、家でビデオを見ることに。そこに夫が客を連れて帰ってきて、商談を始めるが、話はだんだん怪しい方向に…
 『ブリジット・ジョーンズの日記』でブレイクしたレニー・ゼルウィガー主演のサスペンス・コメディ。カンヌで脚本賞を受賞しただけに、物語はなかなか不思議な展開をしていく。登場人物たちもそれぞれが魅力的でいい。爆笑というわけではないが、見ながらニヤニヤしてしまう、そんなドラマ。

 不思議といってしまうと、一言で終わってしまうので、そうは言わず、創意工夫が凝らされた映画といいましょう。この映画の狙いは不思議さであり、不思議さを狙って作られた映画を「不思議な映画だった」ということは、アクション映画を見て「アクション映画だった」というのと同じで、まるで何も行っていないことになってしまう。この映画のすべての下にあるのが「不思議さ」で、コメディ映画とかサスペンス映画とかいうジャンルでこの映画を分類すると、「不思議映画」になると思えるくらい「不思議な」映画。
 でも不思議さというのにはいろいろあり、この映画はその中でもおかしさを生み出すような不思議さを目指している。それはある種の予想される展開からのずらし、ストーリーがあってそれに笑いを加味していくというコメディに一般的な展開に沿っているようで沿っていないネタの配し方、などによって生み出されている。
 だから、笑いはたいてい驚きとともにある。それは時には本当は笑えないシーンであったりもする。ウェズリーがデルの頭の皮をはぐシーン、それだけ見れば笑うところではないのだけれど、どこかおかしさを誘うようなところがある。ベティの思い込みも、笑っていないで何らかの対応をするべきで、精神科医にあたるとか、ベティを正気に戻らせようとするのをドラマにすることも可能だったと思うが、この映画ではその問題はおいておいてとにかく話を前にするめる。そこから生まれる笑いは何かこう消化不良のような引っ掛かりがある笑い。
 何かすっきりしないというか、解決しない問題をいろいろ抱えたままいろいろなネタが繰り出され、結局それは解決しない。アー、なんだかすっきりしない!という感じですが、それも多分狙いでしょう。

 こういう、微妙にずらした映画を見るときにいつも感じるのは、見る環境によって映画の見え方が違ってくるんだろうなぁ、ということ。映画館でたくさんのいい観客に囲まれて、いい雰囲気で見る(つまり、タイミングよくみんなが笑ったりする)のと、家で一人でビデオで見るのとはぜんぜん違う。たぶん映画館で見たほうが面白いでしょう。でも、映画館でもタイミングをはずして笑ったり、とにかく大爆笑したりする人がいると、こっちは興ざめということになりますが、そういうはずした人が結構でそうな映画でもあります。
 これはいつも言っていることですが、映画とは観客がいてはじめて完成するもの、観客は一人でも一万人でもかまわないわけですが、観客と映像作品との関係性こそが映画というものだということです。こういう微妙なコメディを見ると、そのように観客の存在が映画にかかわってくるということを意識します。だからこのような映画を自分の見た環境を問うことなく評価してしまうのは気が引けます。もう一度違う環境で見たらまったく違う感想を持つんじゃないかと思ってしまう。
 私は一人で家でテレビで(ビデオではなく)見ましたが、できればあまり人のいない二番館(そんな言葉もう使わないか)あたりで見たい映画でした。

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