Le Sugne du Lion
1959年,フランス,100分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ニコラ・エイエ
音楽:ルイ・サゲール
出演:ジェス・ハーン、ヴァン・トード、ミシェル・ジラルドン、ステファーヌ・オードラン、マーシャ・メリル、ジャン=リュック・ゴダール

音楽家を名乗って遊び暮らすピエールのもとに大金持ちのおばが死んだという電報が届く。遺産で大金持ちだといきまくピエールはパリ・マッチで記者をするジャン=ピエールをはじめとする友達を呼び、ジャン=ピエールにお金を借りて派手なパーティをする。しばらく後、ピエールは姿を消し、人々はピエールに遺産がはいらなっかったのだとうわさする…

「カイエ・ドゥ・シネマ」の編集長として理論面でヌーベル・ヴァーグを支えてきたエリック・ロメールが39歳にして始めて撮った長編映画。現在ではヌーベル・ヴァーグを代表する監督のひとりとなっているロメールの見事なデビュー。

何が“ヌーヴェル・バーグ”か? という疑問は常に頭から離れることはないが、この映画が“ヌーベル・ヴァーグ”であることは疑いがない。それはある種の新しさであり、50年代後半にフランスの若い映画監督たちが作り出した共通する独特の「空気」である。緻密に分析すると、編集の仕方とか音の入れ方とかいろいろと分析することはできるのだろうけれど、そういう小難しいことを抜きにしても、“ヌーベル・ヴァーグ”っぽさというものを経験として蓄積することはできる。この映画はまさにその“ヌーベル・ヴァーグ”っぽさを全編に感じさせる映画だ。

などといっても、実質的には何も言っていないような気がする。イメージとしてのヌーベル・ヴァーグはこんなものだといっても、何にもならない。だから、これがヌーベル・ヴァーグかどうかはおいておこう。

この映画にもっとも特徴的に思えるのは、パン・フォーカス。パン・フォーカスとは焦点距離を長くして、画面の手前にあるもの遠くにあるものの両方にピントをあわせる撮影方法で、ビデオ時代の今となっては簡単にできる方法だが、フィルムでやる場合、(カメラをやる人はわかると思いますが)絞りを大きく(ゆるく)する必要があるため、大きな光量が必要になる。日本ではパン・フォーカスといえば黒澤明で、それをやるために隣のスタジオからも電源を引っ張ってくるのが日常的な光景だったというくらいのものなわけです。

光量の問題はいいとしても、この作品でもパン・フォーカスが多用される。この映画ではそのパン・フォーカスが画面に冷たい感じを与える。パン・フォーカスをしていながら、画面の奥にあるのがものだけだったりすると画面がさびしい感じがして、そこから冷たさが生まれてくるものと思われる。これが一番発揮されるのはピエールがパリの街をさ迷う長い長いほとんどセリフのないシーン、画面に移るパリの街や人々のすべてにピントが合いながら、それらと交わりあうことのないピエールの姿の孤独さを冷酷なまでに冷静に見つめる視線。その迫力は圧倒的な力を持って迫ってくる。

「絶望」という無限の広がりを持つ言葉を一連の映像として見事に表現したシーン。その言葉には言葉にならないさまざまな感情、怒り、あきらめ、などなどが含まれながら、それは非常に空疎で、やり場がなく、しかし自分には跳ね返ってきたり、などなど。やはり言葉にはならないわけですが、その言葉にならないある種の宇宙をそこに見事に表現したロメールの技量の見事さ。これはなんといってもパン・フォーカスとモンタージュの妙だ。最後にパリの空撮ショットが入れ込まれるのも非常に効果的になっている。

このシーンがものすごくいいシーンだったわけですが、いまのロメールにつながる物を拾うなら、自然さというかアドリブっぽさ、偶然性、というものでしょう。こっちのほうの典型的なシーンは最初のほうのパーティーのシーンで、たしかジャン=フランソワがドアを開けるときに、ドアが一回では開かず、2回か3回がたがたとやる。これが果たして演出なのか偶然なのかはわかりませんが、このアクションひとつでこのシーン、この映画に自然さとリアルさが生まれる。今に至るまでこのような自然さというのがロメールの映画にはあふれている。何気なく見ていると何気なく見過ごしてしまう。だからこそ自然なわけだけれど、そのようなカットやアクションをさりげなくはさんでいく。それこそが“ヌーベル・ヴァーグ”というよくわからない枠組みを越えて、ロメールがロメールらしくあるひとつの要素であると私は思うので、デビュー作のこの作品にもそれが垣間見えたことは非常にうれしいことだったわけです。

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