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夜の女たち

2005/3/23
1948年,日本,75分

監督
溝口健二
原作
久坂栄二郎
脚色
依田義賢
撮影
杉山公平
音楽
大沢寿人
出演
田中絹代
高杉早苗
角田富江
永田光男
村田宏寿
浦辺粂子
preview
 なかなか復員してこない夫を待ちながら、夫の実家で病気の子供を抱えて暮らす房子に夫の訃報が届き、その直後には子供も死なせてしまう。夫の死を知らせてくれた平田の会社の社長は房子を気の毒に思い、社長秘書として房子を雇い、房子は夫の実家を出る。そんな折、房子は行方知れずだった妹の夏子と再会するが、両親はすでになくなり、夏子はダンサーとして働いていた…
 溝口が、戦後の貧しい日本で苦しい境遇に置かれた女たちを描いた社会派ドラマ。この頃の作品は田中絹代がひとり光っている作品が多い。これもそのような作品のひとつ。
review

 戦後の女性たちの厳しい現実、それをリアルに描こうとする溝口、その構図はよくわかるし、社会派リアリズムの作品として成立しうる題材である。しかし、この映画の物語はあまりにもありきたりすぎるというか、女性の悲惨な運命を描いているだけで、それ以上の何かがあるわけではないというところに問題があるような気がする。ここに登場する3人の女性、房子、夏子、久美子がどのような末路をたどって行くのかは映画の中盤ですでにわかってしまう。リアリズムを目指す以上それは仕方のないことなのだが、彼女たちの運命の悲惨さはあまりに型どおりでなかなか面白さを見出せない。

 それでもさすがに溝口という点ももちろんある。ひとつは画面の中にたくさんの要素が盛り込まれているということ。画面の前面で展開される物語以外の要素が、その後ろに常にあり、それがまさにリアルさを演出しているのだ。不必要といえば不必要な要素もあるのだが、それが存在していることによって現実感が増すような様々な描写、その存在が溝口らしさをかもし出す。たとえば、窓の外で揺れる洗濯物一つとっても、ただ洗濯物が背景としてあるというだけでなく、それが揺れることによって意味を持ってくる。その房子がいるアパートがどのようなところなのかをその洗濯物が象徴的に示すのだ。
 もうひとつは、溝口らしいというよりは、この映画がかろうじて名作として残りうる要素というべきかも知れないが、田中絹代の演技のすばらしさである。決して秀逸とはいえない物語や装置の中で田中絹代だけはさすがの輝きを見せる。
田中絹代の「夜の女」の姿にはどうにも違和感がぬぐえないが、その違和感こそが、この主人公の房子を非常によく表現しているように思える。実際に田中絹代という女優が夜の女を演じおることに違和感があるわけだが、この主人公の房子というのも夜の女には似つかわしくない女なのだ。しかし、その房子が夜の女然と振舞うことによってかもしだされる奇矯さがこの映画が描こうとしてる“場”をリアルに表現する。そしてそれが最後にはうまく作品と折り合って、しっくりと来る。
 そのような意味では、作品としてまとまってはいるわけだが、それ以上の面白さというのは感じられないのだ。

 溝口は、戦後民主主義という新しい社会の中で、自分の描くべきものは何なのか捜し求めていたのではないか。基本的には戦前から続く“女性”というテーマを中心に置きながら、社会の変化に伴って変化して行く女性をめぐる環境を含めて、それをどう描いて行くか、その方向性が定まらないまま、映画を作っていた。この作品もそのような迷いの中で生まれた作品のひとつなのではないだろうか。50年代に入ると、溝口は名作と呼ばれる作品を次々と撮るようになる。そこでもやはりこの作品に登場するような悲惨な境遇の女が主人公になるのだが、そこにはもう迷いはなく、いわば溝口が理想とする女性像とでも言うようなものが込められているのだ。
 しかし、実はそれを描くことが出来るようになったのは、この戦後すぐの迷いの時代の労作を経たからなのではないかと思う。その50年代の溝口作品に登場する女性を見ると、彼女たちは共通して不遇の境遇にありながら気高い精神性を持っている。娼婦と聖女の共存、それはこの『夜の女たち』のラスト・シーンでこれ見よがしに映されるマリアのイコン(ステンドグラス)を思い出させる。娼婦たちがたまる廃墟に掲げられたマリアの姿、それはまさに溝口の心の中を映したものなのではなかったのか?

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: 日本50年代以前

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