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赤毛

2005/6/9
1969年,日本,116分

監督
岡本喜八
脚本
岡本喜八
広沢栄
撮影
斎藤孝雄
音楽
佐藤勝
出演
三船敏郎
寺田農
高橋悦史
岩下志麻
田村高廣
伊藤雄之助
岸田森
乙羽信子
神山繁
天本英世
preview
 王政復古を告げる官軍の先鋒に立つ赤報隊、その隊員の一人である権三は隊が自分の生まれ故郷に差し掛かるということで、隊長の相楽総三に自分に隊長の印である赤毛を貸して、先駆けとして行かせてくれと頼み込む。折りしも代官がいつものように圧制を引いており、権三は官軍の権威でそれに立ち向かうが…
 岡本喜八の幕末もののひとつ。三船プロ製作だけに三船敏郎の映画という感じが強く、岡本喜八らしい毒は薄まっているか。
review

 この映画の精神が表れているのは三次の「葵が菊に代わるだけだ」という言葉だろう。権三は官軍によって世直しが成されると素朴に信じてそれを実行しようとしているわけだけれど、結局上が変わっても最下層にいる農民の生活は何も変わらないということを三次は見透かしている。そこで出てきたのがこの言葉ということだ。
 このように、戦争や騒乱というものが庶民の目から見れば結局無意味であるというのは岡本喜八が戦争や騒乱を題材とした映画で常に問題としていることだ。だからこの作品もそのような一貫した姿勢に通じる作品であり、岡本喜八らしい作品といえる。
 しかし、この作品の場合、それを指摘するのは都会である江戸からやってきた三次であり、それ以外の土地の人々は権三と同じように世直しというものを素直に信じてしまう。それを信じる根拠にはもちろん権三が女郎や人質を解放したという事実があるわけで、これまで苦しい生活をしてきただけにそのような介抱を信じたいと言う気持ちがあることもわかる。しかし、苦しい生活をしてきたわけだからもっと懐疑的になってもいいわけで、そのあたりをばっさりと二分法的に描いてしまったやり方には少々疑問が残る。
 もちろん、岡本喜八の作品の基本は娯楽映画で活劇だから、出来るだけ物語は単純なほうがいいというのもわかる。しかし、戦争にこだわり、戦乱に巻き込まれる庶民の苦しみを描こうとするならば、もっと深く掘り下げるべきではなかったのかと思う。『肉弾』では人々の複雑な心理をもっとうまく表現していた気がする。

 そのようになった理由のひとつには、この作品があくまでも三船敏郎の映画であると言うことがあるのかもしれない。この作品で三船敏郎が演じる赤毛の権三はどこか抜けたコミカルなキャラクターではあるが、彼は間違いなくヒーローである。岡本喜八の作品では基本的にはヒーローらしいヒーローというのは出てこず、主人公はどこかで世の中を斜めから見ていたり、厭世的だったりすることが多いのだが、それと比べるとこの権三はあまりに一本気なヒーローであるという印象がある。
 ヒーローがヒーローであるためには、その周囲の状況を整理してわかりやすくし、ヒーローがヒーローとして誰を救い、誰と戦うのかを明らかにする必要がある。そのためにこの物語はこうも単純になってしまったのではないか。そのヒーローに抜けたところを付け加えることで何とか嘘っぽい英雄話になることは避けられたけれど、それでもやはり権三は何かを成し遂げ、英雄になった。
 そこに居心地の悪さを感じるのは、結局一人の人間が何かを救ったという英雄譚に常に付きまとう民衆の大衆化ではないか。民衆は誰かに救われる対象として個であることをやめ、集団になってしまう。そのように集団として扱われた大衆にリアリティを感じることは難しい。民衆の一人を個として描いて、それを権力者と対峙させることで岡本喜八はリアリティを生み出してきたのではなかったのか。
 三船敏郎がヒーローとなることで岡本喜八はそのやり方に結果的に背を向けてしまった。それはこの作品が彼にとっては失敗作であることだと私は思う。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: 日本60~80年代

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