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2005/10/6
1953年,日本,96分

監督
成瀬巳喜男
原作
林芙美子
脚本
井手俊郎
撮影
玉井正夫
音楽
斎藤一郎
出演
上原謙
高峰三枝子
丹阿弥谷津子
中北千枝子
伊豆肇
三國連太郎
新珠三千代
高杉早苗
preview
 子供のいない結婚10年目の中川十一と美穂子の夫婦、2階に下宿人を入れ、妻が内職をしてそれなりの生活をしているが、妻は生活に不満があり、夫は妻との冷え切った関係に落胆していた。そんな頃、十一は会社で隣の席に座るタイピストの相良となんとなく親しくなる…
 成瀬巳喜男のいわゆる「夫婦三部作」の3作目。結婚10年目という3部作の中ではもっとも年季の入った夫婦を描き、夫婦の行く末に迫った作品。
review

 「夫婦三部作」と呼ばれる作品群(『めし』『夫婦』『妻』)において、成瀬は子供のいない夫婦が倦怠期に迎える危機を描いている。別に成瀬がそれらを三部作として作ったわけではなく、モチーフの共通性と夫を演じているのが上原謙であるという共通項によって観客あるいは批評家がそう呼ぶようになっただけだが、そう呼ばれるだけあってその3作品には確かに共通するものがある。『めし』では妻を演じたのは原節子でそのふたりだけの家庭に姪が入ってくることで夫婦の間に生じる亀裂を描いた。そして『夫婦』では原節子の代役として杉葉子が妻を演じ、夫の友人の家に間借りすることでその友人が夫婦の間に入って夫婦の間の亀裂を顕在化させた。そしてこの『妻』では高峰三枝子が妻を演じ、夫が会社の同僚に魅かれることで夫婦の間がギクシャクする様を描いた。
 しかし、前2作がコインの裏表のように似た物語であったのに対しこの作品は少々毛色の違った作品であるようにも見える。まずは、前2作ではふたりだけの家庭に闖入者が入ってくることで隠されていた夫婦の間の亀裂が顕在化するという展開であったのに対して、この作品では夫婦にはもともと間借り人がいるし、夫婦の関係に亀裂を入れるのは外部にいる妻の知らない女である。そのシチュエーションの違いは夫婦の関係の違いも生む。前2作では倦怠期ではあるがそれなりに親密であった夫婦の間の亀裂が顕在化するという形で夫婦関係の見直しが迫られるのに対して、この妻では夫婦の間にすでに生じてきた距離感が夫が他の女にひきつけられることでさらに広がり、遂にはその間に越えがたい溝が生じるという形を取るのだ。
 この違いは決定的だ。これは夫婦の物語という形を取っているが、実際は男と女の物語であり、さらに言えば妻という立場に置かれた女の物語である。妻であることと女であることは両立するのか。10年という結婚期間が妻を女として生きることから遠ざけた。作品中に「子持ちの女なんて相手にされない」という言葉が二度も出てくる。それは母親という立場と女という立場が両立しないことを示している。しかし、十一は結局子供を連れてやってきた相良と一夜を共にする。彼女は母ではあるが妻ではない。だから女としても生きていけるのだ。

 成瀬巳喜男は昭和20年代にはこの作品のように夫婦や母親として生きる女を映画いている。しかしこれが30年代になると妻や母でありながら女としても生きようとする女性たちを主人公に据えるようになる。そしてその中心に据えられるのが高峰秀子なのである。この『妻』の高峰三枝子は昭和20年代の成瀬映画のヒロインたちと30年代の高峰秀子とを結ぶ結節点になっているのではないか。家庭の中で母親(田中絹代ら)や妻(原節子ら)として生きる女たちを描いていた成瀬が、その家庭から飛び出す女を描くようになるその直前、家庭という牢獄に閉じ込められてどうにもならない女を描いたのだ。
 この高峰三枝子演じる身勝手な妻は自分の欲求を家庭の中で全て満たそうとしているがゆえに、さらにそこに閉じ込められ、自ら不幸を招いて行ってしまっている。10年間の結婚生活で夫への愛情が薄れ、ただ何かを求めるだけの関係になってしまったとき、彼女には逃げ道がない。子供でもいればそれが逃げ道になるのだろうけれど、それも出来ず、内職をし、土産物に食いつき、自らの欠乏を満たすことだけをただただ考えているのだ。
 この閉塞状況を打破するには彼女は外に出るしかない。それが出来ない彼女はただただ悲惨な悪循環を繰り返すだけなのだ。
 その閉塞状況を打破するため、自ら外へと刺激もを求めるとき高峰秀子という新たなヒロインが生まれる。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: 日本50年代以前

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