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キクとイサム

2006/2/20
1959年,日本,116分

監督
今井正
脚本
水木洋子
撮影
中尾俊一郎
音楽
大木正夫
出演
高橋エミ子
奥の山ジョージ
北林谷栄
三井弘次
宮口精二
三島雅夫
殿山泰司
多々良純
東野英治郎
三國連太郎
preview
 東北の山奥の村、養蚕をしながら暮らすしげ子婆さんと混血児の孫キクとイサム。姉のキクは6年生だが、人一倍体が大きくて力が強くお転婆で、ガキ大将にからかわれてもガキ大将に勝ってしまう。しかし、キクは女の子らしく自分の養子がかわいくないことを気にしていた。そんな時、腰の悪いおばあさんが病院にいくというので、しげ子婆さんとキクは町へ行くが…
 今井正監督が独立プロで混血児問題に正面から取り組んだ問題作。キクを演じた高橋エミ子は現在も歌手として活躍。
review

 この作品はまさに時代を象徴する作品だ。時は1959年、日本は岩戸景気に沸き、皇太子の御成婚で盛り上がった。GHQによる占領政策が終了したのが52年、日本の民主主義はそこから徐々に定着していった。
 映画界でも、GHQの占領下ではレッドパージの嵐が吹き荒れ、東宝争議をはじめとする労働争議によって退社を余儀なくされる映画人も多かった。そんな時代の流れもGHQの占領政策終了とともに止まり、会社を追われた映画人たちは独立プロを作って映画会社のコントロールを逃れた自由な映画を作るようになっていた。
 今井正は、山本薩夫や新藤兼人らとともにその独立プロ運動の先頭に立っいた。独立プロの作品がすべて左よりというわけではないが、日本共産党員だった今井は左翼思想に基づいた攻撃型の作品を数多く撮った。が、決して共産党の宣伝映画に堕することは無く、多くは民主主義の理想に燃えた人間主義的なドラマだった。そして、時代もまさにそれを求めていた。人々は「新しい日本」を夢見て、民主主義的理想に燃えていたのではないか。皇太子の御成婚というのも、その相手の美智子さんが民間人だったということで、人々に“平等”を意識させるひとつのきっかけになったのではないだろうか。
 そして、この『キクとイサム』はまさにそんな民主主義と平等を見事に描く作品となり、キネ旬ベスト1にも選ばれた。

 このようなことをわざわざ最初に書くのは、このようなことを考えずにこの映画を観ることはできないからだ。この時代の“混血児”が主人公である以上、そこには必ず終戦直後の日本とアメリカの関係が入り込んでくるし、差別の問題も入ってくる。この映画のテーマはなんと言ってもその混血児の兄弟が感じる差別なのだから、その差別の構造がどのようにして成立しているのかを考えずにはいられない。
 この映画は人々(キクとイサム自身も含めた)の“クロンボ”に対する差別意識の根源を示してはいない。白人との混血だったらと想像してみると、それが単純な異者に対する差別意識ではないということがわかる。日本人は白人の価値観を通じて黒人に対する差別意識を自分たちの中に植え付けてしまった。黒人差別と左翼排除、GHQによる占領政策は、民主主義と抱き合わせでその2つの思想も日本に残して行ったのだ。
 この映画の難点は、民主主義の理想にすべてを還元してしまうことで、その“クロンボ”に対する差別という個別の問題をないがしろにしてしまっているように見える点だ。この映画は民主主義が掲げる“平等”という言葉の理想を追えば、白人も黒人も関係なく差別から逃れられると夢想しているように見えてしまう。
 映画の最後近くでイサムが旅立つとき、イサムと一緒に旅することになるふたりの少年が一瞬映るが、そのふたりは明らかに白人だった。ここで私はこの白人との混血児であるふたりの少年とイサムの立場はぜんぜん違うものなのではないかと思ったが、映画はそのことにはまったく触れず、同じ“混血児”として片付けてしまっている。
 差別の問題を人々に喚起するという意味では、この作品は非常に意義深いものだと思うが、その差別の背後にある複雑な心理については何も語ろうとしない。それは今、つまり民主主義が思想として定着した今の日本でこの作品を見ることによって初めて見えてくる論点なのかもしれない。アメリカによってもたらされた民主主義が孕む歪み、民主主義というモノをその理想によって無批判に歓迎していた当時では見えていなかったそのような歪みがこの映画から透けて見える。それはこの映画の批判するべき点ではなく、逆に現代的な意義と見ることができる。もちろん作られた時点では意識されていなかったことだろうが、この映画が時代性を体現することで、その時代の像が今という時点からは見えてくるのだ。時代の証人としての映画の機能、この作品が果たしているのは映画のそのような役割なのだ。
 このような作品は左翼的な思想もあいまって「時代遅れ」と捉えられることもあるかもしれないが、私はそのように評する人が果たして「遅れていない時代」つまり現代のことを能く捉えているのかということに疑問を感じるのだ。私自身は何かが「時代遅れ」だと感じたようなときには、その「遅れた」という判断の根底にある自分の現代的感覚を疑ってみることにしている。
 何かが時代遅れだということはつまり、それが現代においては無用のものであるということを意味する。機能するとしてもせいぜいノスタルジーの対象としてしか機能しない、そのようなものになってしまったということを意味するわけだ。しかし、そのように感じるのは、もしかしたらそこから現代的な意味を読み取ることができない私の無能力によるのかもしれないのだ。いや、ほとんどの場合はそうなのだ。私はこの映画を見て「時代遅れ」だと感じそうになってしまった自分の感覚から、またひとつ自分の無知を知る。

 話がすっかりそれてしまったが、この作品の時代性というのは左翼的だとか、混血児を問題にしているということにだけあるのではない。現代から見てこの映画の時代性をもっともよく示しているのは、この作品においては黒人と白人に対し類式の違いが問題にされていないという点だ。
 それはこの作品にとってより重要なのが混血児に対する差別という切迫した問題であるからなわけだが、その選択(あるいは無関心)にこそ時代性が宿っているのだ。その問題意識の不在を見ることで現代の私たちは日本人である観客地震の体に染み付いた白人的な差別意識に気がついてしまう。異なった時代の価値観を見ることで、現代の価値観に気づかされる。そのような効果がこの映画にはある。それはもちろん映画制作時に意図されたものではないわけだが、制作者の意図とは無関係にこのような意味がこの作品には付されるということだ。

 そのように、現代的にも意味があるものとして私はこの作品を見たわけだが、それを置いてもこの作品は純粋に映画として面白い。その大部分はキクのキャラクターに負っていると私は思う。同級生たちにからかわれ、しかし腕力では男の子にも負けない。明確に告げられてはいないが、自分が他の子と違うことに気づいている(イサムが気づいていないという設定もなかなか無理があると思うが)。にもかかわらず子供らしさを失わず、しかも周囲に対する思いやりにもあふれている。体と同様に器も大きいキャラクター。そのキャラクターの魅力が無ければ、差別意識の不合理さにも説得力がわかないだろうから、このキクの魅力というのがこの映画の成功にもっとも寄与したということは疑いが無い。とするならば、やはりまず脚本の面白さありきである。今井正は確かにいい監督だが、彼の作品が名作となったのには水木洋子といういい脚本家がいたおかげなのだと思う。この作品もその例に漏れず、とにかく脚本がすばらしいのではないかと思うのだ。
 それにしても、現実の生活でもこのような差別を受けていたであろう高橋エミ子が見事にこの役を演じきっているのには脱帽する。当然素人で、しかも実生活でのいやな思いを映画の中でも味あわされ、しかもそれを跳ね返さなければならない。彼女の前では次々登場する名脇役たちも霞んで見える。

Database参照
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国別・年順: 日本50年代以前

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