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ドッグヴィル

2006/3/12
Dogville
2003年,デンマーク,177分

監督
ラース・フォン・トリアー
脚本
ラース・フォン・トリアー
撮影
アンソニー・ドッド・マントル
出演
ニコール・キッドマン
ポール・ベタニー
クロエ・セヴィニー
ローレン・バコール
パトリシア・クラークソン
ベン・ギャザラ
ステラン・スカルスガルド
フィリップ・ベイカー・ホール
ウド・キア
preview
 チョークで「トムの家」などと書かれたセットがロッキー山脈の行き止まりにある村ドッグヴィルであると説明され、そこに住む人々の生活が語られる。そこに住む文学青年のトムは、銃声を聞きその直後に村に現れた美しい女グレースを追ってのギャングからかくまう。そして、そのグレースを村でかくまうことを村人たちに提案するのだが…
 鬼才ラース・フォン・トリアーが舞台のようなセットで一本の映画を撮るという意欲的な撮影方法で作り上げた力作。ラース・フォン・トリアーによる“アメリカ三部作”の第1作でもある。
review

 まず目が行くのが舞台のような、というよりも舞台よりお粗末なセットであることは間違いない。映画の常識を覆す、舞台装置で演じられる映画はどのようなものかまったく想像がつかない。しかし、実際に見て観ると、建物や風景や壁や空がないということはだんだん気にならなくなってくる。別にリアルなセットやCGがなくても映画は作れる。そこに役者がいて、演技をして、リアルな空気を演出することが出来れば、観客はそこに背景がなくても気にしなくなる。そもそも登場人物たちに集中しているときには背景などほとんど見てはいないのだ。
 これは、映画にとって新しい発見ではないかと思う。おそらく誰しもがセットというものが道具に過ぎないことは気づいていただろうが、それをここまであからさまに表現し、しかも力強い映画を作ってしまったのだから、かなり革命的なできごとだろう。
 そして、こんなに革命的で突飛なことなのに、そのこと自体はあまり語られないというのも、その試みがいかに成功したかを表している。映画を見た人たちはセットどうこうよりも、映画のもつメッセージに頭を悩ませ、それについて語ろうとする。それはこれがまず映画として成功したということだ。そこで語られていることについて同意できるかどうかを考えさせているという時点でこの映画の試みは成功したのである。

 そして、そのことについて考える。この作品は公開される前からすでに“アメリカ三部作”の第1作であると喧伝されていた。そして、映画の中盤から終盤に入るあたりで独立記念日が大々的に祝われ、星条旗がはためくことからしても、この舞台が重要であることは間違いがない。
 では、この作品はアメリカの何を語ろうとしているのか。まず簡単に考えれば、このドッグヴィルという村がアメリカの象徴であり、そこに他者が侵入してくるという話である。最初は他者に寛容だった人々が徐々に変わって行き、差別し、利用し、排斥する。そしてそれが恐怖心(映画の中では主に“弱さ”と表現されているが)に起因するというのが非常にアメリカらしい。
 ならばこれは、反米映画なのだろうか。確かに反米という考え方は出来る。しかし、この映画を見ながら誰もが背筋が凍るような恐ろしさを覚えるというのは、この村がその観る人が接している現実も象徴しているからだ。つまり、このドッグヴィルが表象しているのはアメリカだけではなく、アメリカ化された全世界であるのではないかと思う。もちろん、地域ごとに差はあるが、世界じゅうどの地域でもある程度はアメリカ化がなされ、人間のありようは変化している。その変化した世界の象徴としてドッグヴィルは提示されているのではないか。

 では、そこに闖入してくるグレースとはいったい何者なのだろうか。まず、その名前に注目して観ると、グレースとは“アメージング・グレース”という有名な歌があることからも想像できるように「神の恵み」という意味である。しかも、トムがグレースがやってきたときにそれが“恵み”であるということをわざわざ言っている。
 つまり、ここでグレースは神と結び付けられざるを得ないのだ。ドッグヴィルという煉獄に舞い降りた神の恵み、それがグレースであるはずなのだ。そしてこれも“神の国”アメリカを連想させる。「ゴッド・ブレス・アメリカ」という歌が国民的な歌になっているように、アメリカ人は自国に、神の恵みが訪れることを強く望む国民である。
 しかしもちろんこれも、アメリカだけに責任を擦り付けることができるものではない。日本のことわざにも「棚からぼた餅」とあるように、人は誰しも自分に天から恵みが降ることを望んでいるものだ。

 では、いったいこの作品は何を言わんとしているのか。私が思うに、この物語の最後の展開にこそ意味があるのではないかと思う。観客は最初はトムに同一化してグレースを受け入れ、次にグレースの立場に身をおき、村の人たちの陰険さや卑劣さに腹を立て、恐怖し、憎悪するようになる。そしてそのままラストへと行くのだが、しかしこのラストでグレースが村の人たちを憎むのではなく、赦そうとするところで突き放される。
 グレースはこれについて、父親にそれは傲慢だと言われる。自分が彼らより高みに立って赦すことの傲慢さであると。それには納得できる。しかし、だからと言って憎悪と復讐の念に身を任せていいのか、そのような終わり方をしてしまっていいのかという疑問に駆られる。
 しかしそれでも、ラストで観客は憎悪を抱いていた相手に復讐することのカタルシスを感じてしまう。自分たちが住む現実の象徴であるドッグヴィルを抹消することによって感じるカタルシス、それは私たちの傲慢さを間違いなく表している。そしてまた、そのようにして容易に立場を変えてしまう自分自身に対して恐ろしさを感じもする。
 この映画は本当に怖い。登場する人々も怖いが、この作品を観ることによって見えてくる自分自身も怖い。本当にぞくぞくと背骨を寒気が上ってくるような恐怖を味わいながら、この映画は本当にすごい映画だと思った。

Database参照
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監督順: 
国別・年順: デンマーク

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