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Shall we ダンス?

星

2006/5/19
1996年,日本,136分

監督
周防正行
脚本
周防正行
撮影
栢野直樹
音楽
周防義和
出演
役所広司
草刈民代
竹中直人
渡辺えり子
柄本明
徳井優
田口浩正
原日出子
preview
 郊外に念願のマイホームを建てた経理課長の杉山だったが、生活に張り合いをなくしていた。そんな時、電車の中からダンス教室の窓でさびしげに外を眺める女性を目にする。杉山は長い躊躇の後、勇気を振り絞ってその教室に足を踏み入れる…
  平凡なサラリーマンがひょんなことから社交ダンスの世界にはまっていく様を描いたヒューマン・コメディ。大ヒット、日本の映画賞総なめ、そしてハリウッドでリメイクと話題も豊富な作品。
review

 この映画は面白い。非常に現代的というか、現代という時間をここ日本で過ごしているわれわれの心にストンと落ちてくる映画なのではないか。それはただ単に時代性がある映画だということではない。この映画がある時代(90年代)を象徴するようなプロットや描写を持っているというわけではない。むしろ逆にその典型的で陳腐なものとの違いによってその時代の持つ本当の意味というものを浮かび上がらせているのだ。
  都会から遠く離れた郊外に死ぬまで続くローンで家を買う。この設定自体はすでに使い古され、何の新鮮味もなく、いまさらどんな意味も持ち得ないように思える。そのような主人公はローンの重みに押しつぶされ、家族からは理解されず、だいたいが孤独の淵に沈んで行く。そんな報われない“オヤジ”が主人公のドラマなら本当にはいて捨てるほどある。それは90年代というよりは80年代の典型的な物語であるような気がする。
  そういうドラマはだいたいがその“オヤジ”が家族や会社のあずかり知らぬところで活躍し、家族が彼のことを見直し、幸せになるというものである。それはハッピーエンドのように見えるが、実はその幸せや家族の尊敬や融和はかりそめのものでしかない。なぜならば、会社や過程以外の別の“何か”によって尊敬を集めようと、1時間を越える通勤時間や一向に減らぬローンという問題はまったく変わることなく維持されるからだ。そこでは相変わらずつらく孤独な日常生活があり続ける。その日常生活が不幸なのは、その生活が“バブル”によってもたらされた不幸であるからだ。彼らが苦労している“ローン”には実は実体がなく、それは“バブル”という夢がもたらした過剰な付加価値でしかないのだ。その決定的な不毛さ、救いようのなさゆえに彼らは決して救われることがない。たとえそのオヤジが剣玉で世界チャンピオンになっても(そんな映画はないけど)、彼は相変わらず実体の伴わない借金に苦しみ、家族はそんな彼を疎んじるのだ。彼は一時的な成功で“バブル”によって失われた夢をかりそめ取り戻しはしたけれど、そんなものは決して長続きすることはなく、借金という現実がすぐに彼を捉えなおしてしまうのだ。

 長時間の通勤時間と思いローンを抱える“オヤジ”が家族や会社のあずかり知らぬところで活躍し、家族が彼のことを見直す。というプロットだけを見ると、この映画とそれほどには変わらないように思える。しかしこの物語は、そのような80年代の物語とは決定的に違っている。それは物語の主人公たるこの“オヤジ”の欠如はバブルという夢によってもたらされたものではないからである。彼はバブル時代のオヤジと同じく、生活に意義を見出すことが出来ないが、それは「せっかく苦労して手に入れたマイホームがバブル崩壊で二束三文になってしまったのに、借金だけは残ってしまった」などという理由、夢を奪うような現実的な理由からではない。彼はただ単に「意義を見出すことが出来ない」のである。
  主人公自身が映画の中で言っているように「ローンを返すために頑張ればいいのだけれど、なぜか虚しい」のである。このような虚無感が彼を駆動し、確たる目的もないままに社交ダンスという世界に彼を引き込んで行く。彼自身、最初は「車窓から見かけた美女に惹かれて」という理由を信じる。ありていに言えば浮気、妻以外の女性への興味が理由だと考えるのだ。しかし、それは違う。彼自身よくわからない理由で彼は社交ダンスへと駆り立てられ、わからないがゆえにわかりやすい理由を考え出してそこにとってつけているだけなのだ。 実際に彼を突き動かしているのは、ダンスの先生に対する中年の恋心などというものではなく、彼が「なぜか虚しい」と感じるその虚無感なのである。この虚無感、人生に意義を見出せないという虚しさ、無力感こそが、90年代という時代を象徴するものなのではないだろうか。彼はその無力感を払拭し、充実感を取り戻すめにダンスへと没頭して行く。

 それは、「自分探しの旅」と言い換えることも出来るのかもしれない。日常に忙殺され、その日常自体は決して意味がなかったり、夢がなかったりするわけではないのに、なぜか感じてしまう無力感、それはその生活が「本来の自分」のするべき生活とどこかでずれてしまっているがために生じる無力感なのである。だから、「本来の自分」を探り当て、その「本来の自分」がやるべきことをやれば、無力感を払拭することが出来て、生活はまったきものになるという幻想、そのような幻想が90年代という時代を覆っていたのではないだろうか。
  そのような「本来の自分」はもちろん普段の日常生活とは別のところにあるはずだから、会社とも家庭とも断絶したどこか別の場所にその生活の場所は求められる。だから、この映画の主人公がダンス教室を見つけたのが、会社の近くでも、家の近くでもなく、会社と家庭の途中にある場所だったのは必然だったのだ。彼はそこで、別の日常を生き、別の自分を発見し、「本来の自分」を取り戻す。そうすることで充実した毎日が送れるはずだったのだし、実際に充実した毎日を送ることが出来ていた。
  しかし、それは突然崩れる。私は映画を見ながら、この主人公がなぜ突然ダンスをやめてしまったのかが理解できなかった。しかし、彼をダンスに駆り立てていたものが日常とは違う別の日常体験であり、日常の自分とは異なった本来の自分であると考えると、その理由がわかる。彼がダンスをやめてしまったのは、それが本来の日常とつながってしまったからだ。一度、会社の同僚である青木に出会ってしまったときにも日常とつながってしまう危機が訪れたが、青木は杉本よりもより強く日常から隔絶した本来の自分を追い求めていたことで、救われた。むしろ、彼との出会いによって日常との隔絶が強まり、杉本をもっともっとダンスへと駆り立てたのだ。
  しかし、大会を見に家族がやってくるという体験は青木との出会いとは決定的に違っている。彼はそれによって否応なく日常に引き戻され、彼が苦労して築いた壁は一瞬で崩れてしまった。彼が追い求めた「本来の自分」は行き場をなくし、彼はそれを捨て去ろうとした。彼にはその2つの自分を結びつけることは不可能だったから(この映画は彼を徹底的に真面目で不器用な人間として描いているから、彼だけがそれが出来ないというのはそれほど不自然には感じられない)、退屈だった日常に戻ることで、それを忘れようとしたのだ。
  でも、実際はそのような「本来の自分」などというものは存在しない。それは退屈な日常を逃れるための幻想でしかなく、実際はそのようにして見つけた「本来の自分」の幻想を日常に取り組むことで、日常にわずかばかりの充実感を増すことが出来るだけなのだ。この主人公もより時代の空気に敏感な娘の導きによって、そのことに気づき、最後にはその幻想を日常に取り込むことに成功する。

Database参照
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監督順: 
国別・年順: 日本90年代以降

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