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ベストセラー

原爆の子

★★★1/2星

2006/8/9
1952年,日本,105分

監督
新藤兼人
原作
長田新
脚本
新藤兼人
撮影
伊藤武夫
音楽
伊福部明
出演
乙羽信子
滝沢修
宇野重吉
山内明
清水将夫
細川ちか子
北林谷栄
多々良純
東野英治郎
殿山泰司
preview
 原爆で父母と妹を失った石井孝子は今は叔父の家に身を寄せ、瀬戸内海の島で先生をしている。夏休みとなり、孝子は広島に帰って家族が死んだ家に参り、以前広島の幼稚園で教えていた頃の教え子を訪ねようと考えた…
  自身も広島出身の新藤兼人が長田新が編纂した被爆者の子供たちの文集『原爆の子』を土台に作った原爆ドラマ。GHQの占領が続く52年に撮影が開始され、日本初の原爆映画となった。
review

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。広島と原爆、これは世界中に知れ渡っている未曾有の出来事である。にもかかわらず、この広島の原爆を直接的に扱った日本映画というのは驚くほど少ない。この『原爆の子』と同じ新藤兼人監督の『さくら隊散る』、それ以外では今村昌平監督の『黒い雨』くらいが比較的手にしやすい作品といえるもので、最近では黒木和雄監督が『父と暮せば』という作品を撮った(黒木和雄監督は『TOMORROW 明日』という長崎の原爆にまつわる作品も撮っている)が、実際のところどの作品も原爆が投下される瞬間を作品の中心にしているわけではない。基本的には原爆を振り返る形で原爆を扱っているのだ。
  そのように間接的に原爆を扱っている作品は数多く、黒澤明監督の『八月の狂詩曲』、吉田喜重監督の『鏡の女たち』、木下恵介監督の『この子を残して』(長崎)、さらに戦後世代である諏訪敦彦監督はアラン・レネの『ヒロシマ・モナムール』を題材に『H story』という作品を撮った。これらの作品は本質的には原爆による影響を扱った映画であり、原爆そのものを扱った映画ではない。しかし、原爆という出来事は、その爆弾が爆発した瞬間だけをさすのではなく、現在まで続く果てしない影響をもその射程に治めたものであることは間違いないのだから、これらもまたまぎれもない原爆映画であるのだ。
  しかし、それにしても広島と原爆を直接的に扱った作品がこんなにも少ないのか。それにはもちろん様々な理由がある。ひとつには、戦争直後にはGHQの検閲によって原爆を題材とした映画を作ることは事実上不可能であったことがあげられる。この『原爆の子』が撮られたのはGHQが日本の占領を終えた1952年だった。この作品を売り込みに行った新藤兼人はGHQの許可が下りないという理由で各社に断られ、完全な自主制作(近代映画と民藝の共同製作)で撮影することを余儀なくされた。
  また、原爆の悲惨さが映画の題材にそぐわないということも考えられる。原爆そのものをリアルに写実的に描くというのはあまりに悲惨すぎ、見るに堪えないのだ。だから、間接的に原爆を取り上げざることしかできない。そしてそれは、原爆を実際に体験した人々が原爆を思い出したくないと考えていることにも関わってくるのではないかと考えることも出来る。この『原爆の子』の原作といえる長田新の『原爆の子』に手記を寄せている子供たちの中にも「私は、戦争のことを考えたり、原子爆弾の落ちた日のことを思い出すことは、ほんとうにきらいです。 -中略- 学校の宿題が出ましたので、いやいやながら、こわごわ思い出して書きます。」と書いた子供がいた。
  この言葉から推測できるのは原爆を経験した人々の話からひとつのドラマを紡ぎだし、それを映画にするという作業が苦痛に満ちたものになるだろうということだ。直接的に原爆を扱ったリアルであり同時に紛れも無い現実の出来事である原爆を描くには、そのリアルな体験を基にしなければ映画はそもそも成り立たないはずだ。実際の被爆者からその証言を聞きだすということは彼らを再び苦しめることになるのではないか。
  『原爆の子』には原作となる子供たちの文章の集積があり、その中のエピソードを組み合わせることで孝子という人物を生み出すことが出来た。だから、リアルな被爆者像を構築することが出来たのだ。
  しかし、実はそのような心配は杞憂なのかもしれない。新藤兼人は『新藤兼人・原爆を撮る』のなかで、主演の乙羽信子が被爆者たちとの直接の会話によって原爆というものを体験することが出来たと言っている。つまり、彼らは自分の体験をむしろ進んで語っているのだ(もちろん全ての人がそうではないが)。だとするならば、むしろ原爆を直接的に描くことを嫌うのは、見る側であるわれわれなのではないか。そんな悲惨なものは見たくないというわれわれの心理が、制作者側に影響を与えているのではないか。

 そして、実際にこの『原爆の子』に登場する被爆者たちは明るい。まさに原爆病によって父親を失ったばかりである三平や、顔にケロイドが出来、失明までしようとしている岩吉に明るさは無いが、それ以外に人々は多少の障害があっても明るく振舞っている。彼らはもちろん肉親を失ったり、自分自身が障害を抱えたりという暗さを抱えて生きてはいるのだけれど、それでも明るいのだ。まず、この物語の主人公になる石川孝子からして原爆で両親と妹を失ったにもかかわらず明るさを保っている。この映画は原作よりもはるかに明るい雰囲気を持っているように私には思える。新藤兼人が彼らをそのように描くのは、彼とそのスタッフやキャストが実際に被爆者と接することを通じて得た感覚によるものなのではないか。その明るさが映画を救い、観客を救い、ヒロシマを救う。
  そして、その明るさの底にはひとつには仲間意識というものがあるのかもしれない。同じように原爆というものを体験した被害者同士の仲間意識が、相手に暖かく接するようにさせ、なんとか明るさを相手に見せる。それは相手のつらさが手に取るようにわかるからである。彼らは戦争で自分の中の何かを欠いてしまった。彼らは明るく振舞うことで、お互いの何かを埋めあうことができるのではないかという儚い希望を持って、相手を思いやる。
  遠くからヒロシマを思い浮かべる製作者たちにはそのようなヒロシマを思い浮かべることは出来ない。原爆という未曾有の悲劇を経験したヒロシマは今もその苦悩に沈んでいるのではないかと思ってしまったとしても仕方が無いことなのではないかと思う。しかし、広島の人々はたくましく生きる。
  彼らは原爆を恨んでいる(岩吉は「ピカさえなかったら、こんなにはならなかったのに」と恨み言をいう)に違いないのだが、その先にある何か(アメリカか、日本か、戦争か)に対して憎しみを抱くようなことはないように見える。その恨みは何か神や自然に対する恨みのように、諦めを孕んだもののように見えるのだ。だから、彼らは過去を掘り起こしてその恨みを晴らそうとするよりも、未来の僅かな希望にすがって生きるのだ。自分がダメなら子や孫が幸せな生活を送れるようにという希望に。
  だから彼らは生きなければいけない。
  そしてその生きなければならないという思いは、彼らが生き残ったということによっても強くなる。肉親や親しい人々を失ったからこそ、彼らは生き続けることを強く望むのだ。原作の中にもクラスで私ひとりだけが生き残ったから、みんなの分も生きなければならないという感動的な文章が出てくる。そして、その生き続けるという希望がはひとつの明るさにつながる。生き続けていれば何かいいことがあるだろうというのではないが、生きていること自体が悦びであり、楽しみなのかもしれないのだ。それはもちろん彼らが体験した苦悩の裏返しである。自分自身の苦悩と、身近な人々が味わった死、それらと比べれば今生きているということだけでも、奇跡的なことなのだ。

 この作品では、あまり残留放射能のことや原爆の後遺症のことが言われない。三平の父は“原子病”で死ぬが、それは原因のはっきりしない病気とされている。これは放射能の恐ろしさを映画で断言することに二の足を踏んだからだろう。原作の序ではすでに原爆の放射能の恐ろしさが語られているから、“原子病”と呼ばれる病気の使者の死因が原爆であるということはすでに周知の事実だったはずだ。しかしもちろん、その恐ろしさが本当にわかっていたわけではない。この作品に出演した人々のうちどれほどの人が原爆病に犯され命を落としたのか、おそらくほとんどの人は今も後遺症に苦しんでいるだろう。この映画は52年当時の原爆に対する認識を吉良かにすることで、歴史の証人として、逆に放射能の恐ろしさを明らかにする。この作品の孕む明るさの裏にはそのような空恐ろしい未来があることも今では見ることが出来てしまうのだ。
  そして、この作品には被爆者に対する差別という問題も、ひそかに存在している。孝子は岩吉の息子太郎を島に連れて行くことを強硬に主張するが、岩吉自身を島に連れて行くことにはそれほど固執しない。その背後には、岩吉のケロイドに覆われた姿が被爆者のそれであり、その姿で島に行くことによって受けることになるであろう差別に対する怖れがあるのではないかと私は想像する。原爆という未曾有の悲劇の被害者であるにもかかわらず、彼らはその姿かたちによって差別を受けることになった。義夫の姉が障害をおったにもかかわらず嫁にもらうと言ってくれた婚約者に対して宇野重吉演じる孝司が「手を合わせて拝みたい気持ちだった」というのも、そこに差別が存在するからだ。被爆者たちは自分の体に不意に襲ってくる病気や障害と闘いながら、差別とも戦わなければならない。それは60年がたった今でも変わらない。

 私たちはヒロシマをどう考えればいいのだろうか。私たちは本当にヒロシマの事を知っているのだろうか。学校で勉強し、TV番組で見て、あるいは漫画『はだしのゲン』を読んで、少しは判ったような気になっているけれど、この映画を見ながら、そのようなメディアによって伝えられる情報というのは本当に薄められた情報でしかないということに改めて気づく。『はだしのゲン』などはかなり強烈なものではあるのだが、それでも実際に被爆者たちが体験した地獄には及びもつかない。それは映像が表現できる能力を超えることはもちろん、私たちの想像力も超えた出来事だった。私たちが出来るのは、その想像もつかない未曾有の悲劇がどのようなものであったのかということを想像しようとし続けることだ。想像し続けて、それでも本当にあったことには追いついていないのだということを認識し続けることだ。そのためにも毎年この8月にヒロシマと、そしてナガサキのことを思い、記憶の刷新を図らなければならない。そのためには新藤兼人監督にぜひ『ヒロシマ』を完成させてほしいと思う。本当にヒロシマがわれわれ日本人の共通の記憶となるためには、まだまだヒロシマを描いた映画や文学や漫画や芸術が少なすぎると思う。
  私たちがヒロシマを記憶し続けるために、多くの作品が生まれることを期待したいし、私もそのように人々がヒロシマを記憶し続けることが出来るように何かをしたい。この文章も、そのような想いの発露なのである。

Database参照
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