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基礎訓練

★★★★星

2006/10/31
Basic Training
1971年,アメリカ,89分

監督
フレデリック・ワイズマン
撮影
ジョン・デイビー
出演
ドキュメンタリー
preview
 フォートノックス基地での基礎訓練に集められた訓練兵たちはベッドを割り当てられ、髪を刈られ、ID用の写真を撮られ、指紋を採られる。訓練は歯磨きなどの日常的なことがらから始まり、武器の使い方に至る。彼らはここでの9週間の訓練を経てベトナムへと赴こうとしているのだ…
  ワイズマンがベトナム戦争という大きな問題を対象に、その戦場へと向かうために訓練を受ける若き兵隊たちを描いた作品。長編ドキュメンタリーとしては5作目。
review

 この作品でまず目に付くのは、行進のシーンの反復である。映画の序盤ではヒックマンと呼ばれる訓練兵がひとり行進の練習をさせられる(彼は後で再び登場し周囲と比べ少しスローであることが明らかになる)。そのあともシーンとシーンの間には必ずと行っていいほど行進の短いシーンが挿入される。そして最後のシーンも行進で終わる。
  そして、この行進のシーンはこの作品自体を象徴し、全てを言い表していると言っても意。まず、行進というのは軍隊を象徴的に表すものである。彼らが行進するということはつまり彼らが軍隊の一員であることを示す。そしてまた、「基礎訓練」というモチーフにおいては、彼らの行進が徐々に上達し、揃っていくという点にも注目できる。くり返し繰り返し行進をすることで彼らの足並みはそろい、軍隊としての一体感が生まれてくるのだ。そして最後の行進では各部隊が部隊長を先頭に見事な行進を見せる。これは訓練を終えようとしている訓練兵の代表がその演説の中で「バラバラな格好をしてここにやってきたわれわれがアメリカ合衆国陸軍の制服で旅立とうとしている」と言うその言葉に呼応している。彼らは行進によって軍人になり、まさに軍隊のひとつのコマとなったのだ。そこでは個性はかき消され、ただ言われたことを忠実にこなすコマとなるのだ。そのことは映画の序盤で「言われたことをやればいい」とくり返し言いつけられるところにも端的に表れているし、問題がある訓練兵に対して教官が「このシステムの中では、お前は自分がありたいと思うような個人ではいられない」というようなことをいう。
  軍隊とは何よりも個人であることを否定する組織であり、人間をある種の歯車にするシステムである。そのことをこの行進の反復は端的に表現しているのだ。そしてこれは『高校』のモチーフにひとつにも連なる。『高校』の外観が工場のように見え、そのラストシーンでベトナムに言った生徒からの手紙が読まれる。そのことが孕む意味とこの『基礎訓練』とは非常に深い関係があるのだ。

 そしてもうひとつ、注意深くこの行進の際の掛け声を聞いていると、案外コミカルなものが多いのに気づく。意味の全体を理解できなくとも、ある行進ではmother-in-lawとか14 kidsといった言葉が発せられていることには気づくはずだ。真面目なはずの行進にこのようなふざけた文句が使われるというところにはこの訓練全体から感じられるどこか和やかな雰囲気につながるものがある。軍隊の訓練というととにかくスパルタで厳しいものという印象があるが、この作品で観られる訓練はそのようなものではない。むしろ訓練へいたちが兵隊になる心構えができるようになるように明るい雰囲気を作っているという印象があるのだ。例えば射撃訓練のシーンで教官はまず股間に銃を構え、卑猥なジョークを放つ。
  これはワイズマンが様々な作品において重視する“発見”のひとつの例だろう。実際に撮影して見ると、いつも想像していたものとは違うものに出会う。その「違うもの」がここではそのような雰囲気なのだ。
  それでもさすがに実践的な訓練には緊張感が漂う。他の訓練では和やかな雰囲気が漂い、笑いも漏れるが、実弾を使った訓練では訓練へいたちは緊張した面持ちで、慎重な動作で行動している。このような緊張と緩和を体験させることで彼らは本当に兵隊としての意識を育んで行くのだろうと思う。

 そして、もうひとつワイズマンが仕掛けているのは、軍隊と戦争の意味である。まず作品の序盤、訓練へいたちが始めて銃を手にするシーンで、訓練兵の1人が「この銃は人を殺したことがあるのかどうか」と教官に問う。それに対して教官は「私には人を殺していいとか殺してはいけないとかいうことを議論する資格はない」と答える。ここにはこの訓練が人を殺すことに直結するという非常に重い意味がある。
  そしてワイズマンはそのような疑問がくり返し感客の頭に上るように仕向ける。中盤には魂と輪廻を巡る議論(あるいは雑談)が主に教官たちの間でなされ、終盤にはチャペルに集まった訓練兵たちに対して説教が行われる。この説教で牧師は神が彼らに勇気と力を与えるということを力説する。しかしその勇気と力とはいったい何なのか、それは人を殺すための勇気と力ではないのか。
  この作品にずっと漂っているのは、「人を殺す」ということに対するもやもやとした疑念である。同じく終盤の訓練のシーンで教官は「武器を使うのはまず防御のためだ」ということを力説する。これは、武器は人を殺すための道具ではなく、自分の身を守るための道具であると訓練兵たちに言い聞かせているのだ。そんな言葉はもちろんまやかしだ。わざわざ敵地に侵入して行って防御も何もない。
  しかし、訓練兵たちは着実に軍隊のコマのひとつとなり、戦地へと赴く。

 言ってしまえばこの訓練は訓練兵たちが「人を殺す」ということに対する感覚を麻痺させるための訓練なのだ。システムのひとつのコマとして言われることを忠実にこなす。そのような表面的な意味によって自らの行動を律することで、それに覆われる行動の真の意味を見えないようにする。具体的な技術よりもそのような意識の持ち方を学ばせることがこの訓練の最も重要な意味なのではないかと思えてくる。もちろんそれは軍隊には必要なことだ。しかし、やはりそこにはもっと大きな問題が横たわっている。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: アメリカ60~80年代

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