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それでもボクはやってない

★★★★-

2008/2/4
2007年,日本,143分

監督
周防正行
脚本
周防正行
撮影
栢野直樹
音楽
周防義和
出演
加瀬亮
瀬戸朝香
山本耕史
もたいまさこ
光石研
大森南朋
役所広司
小日向文世
preview
 フリーターの金子徹平は会社の面接のためにラッシュの電車に乗っていた。電車を降りた彼は女子中学生に痴漢だといわれ、そのまま警察に連れて行かれる。犯人だと決め付ける警察に対し一貫して無罪を主張するが、その言葉吐き切れられず、弁護士まで示談を勧める…
  社会的な問題となっている痴漢と痴漢冤罪事件を題材にした社会派ドラマ。実際の事件のドラマ化ではなく、多くの痴漢事件からモデルケースを作ってドラマとして組み立てた作品で、その分、司法制度全体の問題点がわかりやすく描かれている。
review

 痴漢のような“性犯罪”は被害者の感情や、これまでの法制度のあり方の問題もあって、被害者保護を進めることに重点が置かれてきた。精神的に痛手を負った被害者が告発し、有罪を立証しなければならないというのは酷だから、被害者の証言が被告人の有罪を推定するようになってしまうのだ。
  しかし、それが行過ぎると、冤罪事件が生まれてしまう。何よりも保護すべきが被害者であることは間違いないのだが、そのために無実の人が有罪にされてしまうというのもまったく許せないことである。
  この非常に難しい問題をこの作品は描いている。

 この作品を見てまず思うのは、非常に慎重に問題を捉えていると同時に、エンターテインメントとしてもしっかりと構成されているという点だ。
  まず、この作品は被害者側をほとんど描かない。こういう裁判ものの映画というのは、必ずどちらかの側が正義になり、観客を同じ側に立たせ、反対する側と対立させることが必要だ。そうしないと観客は戦っている当事者の立場に入り込めないし、その主人公の感情を共有できない。だから、この作品でも観客は必ずこの主人公が痴漢をやっていないということを確信し、彼の味方になって警察と検察をやっつけようという気持ちになるように仕向けなければならないわけだ。しかし、そうすると被害者も向こう側(平たく言えば敵側)に回ってしまうことになる。しかし、その被害者が痴漢の被害を受けたことは間違いないわけで、被害者を責めることはできない。そこでこの作品は、警察と検察とそして何よりも司法制度を敵として描くことで被害者を隠すのである。被害者と被告の証言が食い違っているのは、被害者が嘘をついているのではなく、制度がその食い違いを埋めようとしないからだと主張するのである。
  本来ならば、被害者も被疑者も同じように人権が尊重され、それぞれの言い分は公平に勘案され、お互いの勘違いや嘘はひとつひとつ解きほぐされていかなければならないはずだ。しかし実際はそうは行かない。そしてそうは行かない理由をこの作品は丹念に描いていくのだ。やっていないと嘘をつく痴漢の加害者を毎日取り調べなければならない警察官、何十何百という事案を常に抱えている裁判官、現場に居合わせた人たちの無関心、それらについて私たちは主人公とともに憤るが、それがこの国のシステムなのだ。
  この作品はそのシステムに対する憤りをうまく使い、この裁判がどうなるのかという行方を縦糸として、うまくプロットを組み立てる。司法制度というシステムは主人公が有罪になる方向に進み、無力な主人公達はそれに抵抗する。そしてその司法制度内にも問題があり、ひとりひとりの裁判官や検察官、警察官にもいろいろある。司法制度の問題を描きながら、それで済ませるのではなく、それに関わる人間を描くことで、身近な物語に変えているのだ。

 私たちは常に“人”を見る。人と人とが出会うときに生まれるドラマを見る。だから人によって展開されていくこのドラマは面白いのだ。
  しかし同時にこの作品が描こうとしているのは“人”超えた巨大な国家という制度である。巨大な制度は常に人を押しつぶし、人と人との出会いを阻害する。この主人公と被害者と裁判官とがただ人として会ったなら、まったく別のドラマが生まれたはずなのだが、この国家という制度の下では彼らはこのようにしか出会えなかった。本当はそのことこそが悲劇なのである。
  そのような悲劇が生まれるのは、“人”と“国家”とが乖離しているからだ。普通の人はこの主人公やその家族のように裁判のことなどまったく知らない。司法制度は本来は国家を支える根幹であり、私たちの生活と密接に関わっているもののはずなのに、ほとんどの人にとってはまったくあずかり知らぬ世界なのである。ここにすでに“人”と“国家”との乖離は存在している。それは司法制度に限ったことではなく政治でも経済でも、あらゆる部分で私たちは“国家”に影響されていながら、それに気づかず暮らしている。
  しかし、ある日その乖離した“人”と“国家”の間に突然関係ができ、その関係は大体の場合“人”にとっては悲劇なのだ。それは国家が人に手を伸ばすのは、国家がその人をコントロールしようとするときだからだ。
  だから私たちは逆に自分から国家に手を伸ばそうとしなければならない。しかし、巨大な国家と違ってちっぽけな私たち個人には国家との大きな間隙を乗り越えるだけのジャンプ力が無い。ならば個人は協力し合って、その間隙を越えようとしなくてはならないのだ。それは困難だが不可能ではないということをこの作品はかすかな可能性として示す。
  そして、国家も最終的には個人で成り立っているのだということも同時に言っている。権力を構成している個人を変えることができれば、最終的に権力を変えることができるかもしれない。しかし、権力の中にあっても個人は国家とは乖離し、制度の対しては無力だ。大森南朋や小日向文世はそのことを体現している。無数に張り巡らされた国家による包囲網をとくことは非常に難しいけれど、そのことを知っているだけでも意味はある。
  だからこの作品は最後までもやもやが残ってもぜひ見るべき作品なのだと思う。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: 日本90年代以降

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