The Education of Shelby Knox
2005年,アメリカ,76分
監督:マリオン・リップシューツ、ローズ・ローセンブラット
撮影:ゲイリー・グリフィン
音楽:リック・ベイツ
(TOKYO MX「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」で放送)

テキサス州のキリスト教保守派の高校では“絶対禁欲教育”が行われ、避妊などの性教育が行われないため高校生の妊娠や出産があとをたたず、性病の感染者も多かった。そんな高校のひとつに通うシェルビー・ノックスはその現状に疑問を抱き、性教育を実施するように運動を始めるが…

キリスト教福音派の街で起きる騒動を描いたドキュメンタリー。保守がちがちの街で奮闘するシェルビーの戦いが見もの。

キリスト教福音派は聖書の教えを文字通りに守ろうという宗派で、キリスト教原理主義ともいわれる。アメリカ南部の“バイブルベルト”と言われる地域に集中する彼らの主義主張はアメリカの政治と社会にさまざまな影響をもたらしてきた。

この“絶対禁欲教育”というのもそのひとつ。この考え方は未婚の男女の性交渉を禁じている聖書に基づいて結婚前の禁欲を説く教育。確かにセックスをしなければ妊娠もしないし、性感染症もうつらないのだが、実際にはセックスをするわけだし、その再生に関する知識がないために容易に妊娠し、性感染症も蔓延する。

シェルビー・ノックスは福音派の信者で自身は結婚まで貞操を守る“純潔の誓い”をした敬虔なクリスチャンだ。しかし現実主義的でもあり、性教育をすることは必要だと考えている。そりゃそうだ。福音派の牧師は「性教育をしたらセックスがしたくなる」というが、性教育をしなくたってセックスはしたいんだから性教育はしたほうがいいに決まっている。牧師だって十代のころセックスしたかっただろうに、どうしてそのことを思い起こそうとしないのだろうか。

まあともかくシェルビーは性教育を実施するための運動を開始し、彼女が所属する青年会もそれに呼応する。がちがちの共和党支持者の父親も彼女を指示する。しかし、彼女がゲイの学生たちとつながり始めると青年会も両親も彼女から距離を置く。同性愛の問題は性教育よりもはるかに受け容れ難い問題らしい。そして市や州はさらに強く彼女に反発する。

「普通の」感覚からいうと彼女の言うことは至極最もで、むしろ彼女でも保守的過ぎるという気がするのだが、そういう「常識」はここでは通用しない。これを見るとアメリカという国はあまりに宗教的であまりに偏狭だ。アメリカというと“自由”といわれるが、はっきり言ってこの作品に描かれるアメリカに自由などない。力あるものの自由のために弱者の自由は徹底的に奪われる。それがアメリカという国だ。そしてそれをキリスト教という偏狭な宗教の倫理に摩り替えて弱者を騙すのだ。

牧師自身キリスト教は偏狭な宗教だと言っている。シェルビーはそうではないというが、キリスト教福音派はかなり偏狭な宗教だ。キリスト教自体は成立から2000年を経る間に変遷し、中には寛容な宗派も生まれているが、原理主義である福音派は偏狭だ。

その偏狭さは想像力の欠如につながり、互いの不理解がさまざまな軋轢と矛盾の原因となる。この映画はそんな軋轢を描いた作品のひとつだが、こんな映画がアメリカにはたくさんあるんだということに気づく。まあ福音派の人たちはこんな映画が作られたところで変わることはないだろうから、やはりこういう映画は作られ続けるのだろう。

本当に理解し難いが、それを理解しようとしなければ彼らと同じになってしまうから、頑張って理解しよう。

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